南加福井県人会:ピクニックで創立100周年祝う

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創立100周年祝賀ピクニックに集まった会員ら


あいさつに立つ松下会長


 南加福井県人会(松下修会長、会員75家族)は8日、創立100周年を記念したピクニックを、オレンジ郡ブエナパーク市のピーク公園で催した。時折心地のいい風が吹く晴天の下、会場には会員とその家族約70人が集まり、同会の100年にわたる歴史を振り返るとともに、会員同士親睦を深めた。
 福井県人会は1905年、美浜町松原出身の松井忠蔵氏を中心に創立。同じころ、同県出身の青年有志が「若越同志会」を発足し、毎週日曜日に討論会や演説の稽古、また故郷の話に花を咲かせるなど活動していた。
 1910年、この2つのグループを一つにまとめる案が出され、同年1月2日、松井氏を初代会長に、南加福井県人会として正式に発足した。
 当初は、独身男性や妻子を日本に置いて渡米した男性が多かったが、その後呼び寄せで妻子が、また写真結婚により女性が渡米。領事館に提出する証明書の保証を県人会が受け持っていたことから、県人会の事務は多忙を極めた。

1916年、泉田開教師導師のもと、旧東本願寺で初めて開かれた先亡者追悼法要


 1916年には、旧東本願寺で初の先亡者追悼法要を、またロサンゼルス港近くで大園遊会を催し、100年経った今でもその歴史は受け継がれている。
 1920年代、県人会が一時衰微し始めたため、「若越同志会」と改称し、有志により会を継続。その後、11人が中心となり「異国の友」と題する文芸雑誌の定期発行を始め称賛を得る。このころ婦人会や青年部も創立され、会は活気を取り戻し始めた。
 1925年には創立15周年をホワイトポイントで開催し、会の名称も「南加福井県人会」に再び改称、30年から35年は県人会の全盛期となった。
 戦後、収容所から戻った仲間らと連絡を取り始め、1947年11月、約40人が集まり第1回親睦会を開催。翌年1月11日には、約70人が集まり新年総会を催し、53年4月19日には、エバーグリーン墓地にて県人慰霊塔の建立式を挙行した。

1948年福井地震で、救済物資を発送する「福井・石川・富山三県震災救済会」のメンバー


 また、戦後復興間もない福井県を直撃した1948年6月28日の福井地震(M7・1)の際には、福井県人会が中心となり、石川、富山両県人会と協力し、「福井・石川・富山三県震災救済会」を発足。収容所から出所して間もない時期にもかかわらず、故郷を思う気持ちから義援金や救援物資を集め、当時で6000ドルを送金、県民の復興に多大な貢献をした。
 以来、新年会、夏のピクニック、秋の先亡者追悼法要が続けられ、1950年に創立40周年祝賀会を開催、また60年には創立50年史を発行した。以来、50年間にわたり県人会の歴史の保存と継承、会員相互の親睦を目的に活動を続けている。
 過去7年間にわたり会長を務める松下さんは、県人会が直面する存続問題で「5年ほど前に解散の話が出た」ことに触れ、「新しい会員を増やしていくというよりも、3世、4世、5世など会員の家族にもっと参加してもらい、『大きな家族』として継続していきたい」といい、事実上これ以上の「発展」は難しいと考えを述べた。
 会員家族の積極的な参加を促す一歩として、役員に3世世代を起用、会の進行もすべて英語に切り替えた。「先代の方々が築き上げてくださった会を、少しでも長く継続できるよう努力したい」と、ピクニックで抱負を述べた。

福井県の地図で出身地にピンを付ける会員


 今年副会長に就任した3世のスティーブン・熊谷さんは、「県人会は、1世や2世、主に日本語を話す帰米2世の社交場として、また支援団体として長年十分に機能を果たしてきた」と述べ、「会の衰退は時代の変化に沿った自然な流れ」。県と直接的な接点を持たない熊谷副会長にとって会の存続は、「自分の親、残された会員が楽しい時間を過ごしている限りはサポートしたい」と話した。
 ピクニックでは、エルシー・カワトさんが制作した福井県の地図が展示され、会員らはそれぞれ出身地に印をつけ故郷を懐かしむとともに、熊谷副会長が制作した「福井県人会の歴史」を紹介するスライドショーで県人会の歴史を振り返った。
 エンターテインメントには、松前会による軽快な民謡と、ウエストサイド剣道道場のキャリー・ミゾベ氏による居合道のデモンストレーションが行われ、それぞれ100周年の祝賀会に花を添えた。
【中村良子、写真も】

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