お彼岸に

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 9月3日付朝日新聞衛星版にあった「寺に届く遺骨の宅配便」の記事。親族から引き受けを拒否された遺骨や、無縁仏の遺骨が宅配便で合祀墓を作った富山県の大法寺に届けられるというものだった。身元不明の行旅死亡人は年間1135人。官報で公告されるものの付き合いがない親族は、不明かどうかさえ関心がない。関心があっても官報公告を読む人はどれだけいるのだろうか。
 敬老の日を前に、所在不明の高齢者の記事が相次いだ。戸籍では届け出がない限り生存者であり続ける。渡米してそのまま移住した人の中には、死亡したとき、市民権を取った人がアメリカに届けを出しただけでは日本の戸籍には記載されない。
 20年以上も前に他界している人の戸籍を見たことがあるが除籍になっていなかった。公務員をしていたことがある筆者としては、届けは出すのが当然のことだと思っていたので、不思議にさえ思えた。国内にいても届出をしない、する指導も行き届かないというのも考えられないことだ。
 今はお彼岸。先祖信仰と仏教思想が合わさったお彼岸行事は、墓参りやお浄土についての説教を聞くいい機会でもある。
 この時期に、訃報が届いた。前夫のお母さんが亡くなったという。彼女は、三人の母だったが、長男を亡くし、夫を看取り、長女を4年前に亡くしていた。その間に、妹や弟も。みんなを看取るために生きているようにさえ思えた。春過ぎから体調がすぐれないとは言っていたが、亡くなるほど悪かったとは…絶句した。
 彼岸供養は、お母さんを思ってお参りした。離婚と同時に関係が絶たれて当然なのに、ずっとご縁をいただいた。ありがたいことだった。80歳の誕生日には何か、と考えていたがかなわないことになった。
 座禅会や仏像めぐりに興味を持つ人が増えていると聞く一方で、開教師のなり手がいないと聞く。ただ癒しがほしいだけなのか。しかし、癒しはご縁だと思う。
 友達ができないから中退する学生が増えているという。友達がいない寂しさより、いない恥ずかしさに耐えられないのだという。生きていて無縁はあまりに寂しい。【大石克子】

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