日本政府:横田さんの100歳祝い表彰―明治生まれの大和なでしこ

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新美総領事(左)から100歳の長寿祝い表彰状を贈られる横田さん

 日本政府は、今年100歳を迎えたオレンジ郡在住の横田喜美子さんの長寿を祝って9日、野田佳彦首相の代理の新美潤・在ロサンゼルス日本国総領事がラグナニゲルの自宅を訪問し、表彰状と記念品の銀杯を贈った。
 横田さんは1911(明治44)年6月5日、ロサンゼルスで生まれた。農業移民の父和六さんと写真結婚した母繁子さんの次女。1800年代の終わり頃に移住した父は、独立して手広く商売をして、野菜の運搬会社や養鶏・養豚場などを営み成功を収めた。母は、小東京の二街に洋裁学校を開き、横田さんは「その頃は、着物を自分で縫って作ることがはやっていて、生徒がたくさんいました」と振り返る。五街とセントラル通りのホテルも経営。だが、第二次世界大戦勃発により、築いた富と幸福は奪われ家族はアーカンソー州ローワ強制収容所に送られた。
 広島の実家を継がせたかった父親のたっての願いに応え、横田さんは33年に日本に移り住んだ。「元士族で、父は昔かたぎだったから」と説明する。小学校の校長を務めた健一さんと結婚し、4人の子宝に恵まれた。日米開戦により米国に戻ることができず、収容所暮らしの家族を心配した。終戦後の54年に帰米し、ロサンゼルスに再び住んだ。庭師に転身した夫と、自身はダウンタンの宝石店で働き、子供をすべて大学を卒業させた。
 100年を振り返り「いつの間にか100歳になっちゃいました。いろんなことがたくさんありました。いいことばかりです」と話す。だが、原爆で一瞬のうちに多くの友人の命が奪われ「戦争は最低です」。自身も爆心地から4、5キロ離れた大河という町で家の中で被爆。轟音を聞くと同時に、爆風で割れた窓ガラスの破片が体に突き刺さった。被爆による後遺症はなかったが、数十年後にガラス片が体内から出てきたという。

内藤(左)、三宅(右)の両氏から100歳の祝福を受ける横田さん(中央)

 戦後間もなく結核を患ったのを最後に、病気知らず。月1度の健診を受けるが、異常はなく医師から奨められた骨粗しょう症を防ぐサプリメントを飲むのみで、健康そのもの。記憶力がよく、目はよく見え、耳もよく聞こえる。背筋をピンと伸ばし姿勢がよく、足腰は丈夫で元気に歩き、杖の必要もない。2階にある寝室との階段の昇り降りを1日に10回ほど行う。
 健康維持と長寿の秘訣は「何でも食べること。嫌いなのもはなく、何でもおいしくいただいています」。日本食中心で、同居する息子の耕一さんによると、好物の焼き魚からすし、カレーライス、中華など一人前を完食するという。毎日夜12時頃就寝し、朝8時頃に起床。規則正しい生活も健康を支えているようだ。編み物と数独を趣味とし、ロサンゼルスタイムズと羅府新報を読むのが日課。英語の方が得意というが、敬語を使いきれいな日本語を話し、他人を気遣う明治生まれの大和なでしこだ。
 身の回りのことをすべて自分でこなし、息子夫婦が旅行などで不在の時は留守を1人で預かり3度の食事を自炊する。身だしなみに気を配り、服装はおしゃれで、毎日化粧をして、週に1度美容院に行く。若々しく、とても100歳には見えない。孫10人、ひ孫9人、約40人の大家族とゲストを含め約90人に囲まれ、上寿(百歳)の誕生日を祝ってもらい「うれしかったです」。ホワイトハウスのオバマ大統領夫妻からも祝状が贈られ、大切に保管している。
 総領事から「おめでとうございます。お元気ですね、驚きました。南カリフォルニアの太陽の下でこれからも元気に暮らして下さい」と祝福された。横田さんは「大勢の家族に囲まれて、元気で頑張ってこられました」と答え、祝状を受け取り謝意を表した。
 オレンジ郡日系社会を代表して、同郡日系協会会長のジャック内藤氏と、横田さんと同じ広島からの帰米者の三宅明己氏が祝いに駆けつけた。内藤氏は「いい家系に生まれ、家庭を守り100歳まで生きてこられた。オレンジ郡の日系人として、うれしく誇りに思います」と称賛。いつもは「93歳です」と声高らかに長寿を誇る同郡長老の三宅さんだが、さすがに横田さんの前では「100歳にあやかりたいです」と述べ、顧問を務め、横田さんより1歳年上の広島県人会(1910年創立)の紹介に務めていた。
 日本政府は毎年9月の第3日曜日を「老人の日」と定め、満100歳の国民に対し表彰状を授与している。海外居住の日本国籍保持者も対象とされ、同総領事館の管轄域内で今年は2人が表彰された。同総領事館はまた、独自に一昨年から100歳の米国籍の日系人も表彰しており、2人が該当した。【永田潤、写真も】

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