異文化社会の中で

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 数年交流が途絶えていた知人と再会した。途絶えていた間に、二人の子供を連れて離婚協議に入っていた。彼女が結婚したいと言ったときに、周りの大人たちは人種の違いを心配して、こぞって反対した。しなかったのは私ぐらいだったと思う。周りがとやかく言って止めたとして、彼女が後に悔いを残さないかを思ったからだ。
 別居に入る前に、カウンセリングも受けたというが、カウンセラーの対応に違和感を持ったという。話し合いをして、全て「YES」か「NO」かの選択を迫る夫に返事ができない。
 日本人には「NO」ではないけれど「YES」でもないという間の気持ちや機微がある。相互の歩み寄りや努力によって、プラスにもマイナスにも動く可能性を含んでいる。そういうことがアメリカ人の彼には通じない。もともと背負う文化が異なることから起こることだと思った。
 同じ文化・言語を持ってしても他人だった二人が同じ生活をするのだから、思い違いや分かり合えないと思うことがあって当然のこと。長い年月一緒にいられるのも、離婚協議を容易にできるのも、背負っているものをお互いが理解しようとする姿勢にかかってくるだろう。
 うつ病を患った娘を心配して渡米した母親から相談を受けたが、日本でアドバイスするのと違って難しいと思った。こういう場合、言葉・文化を理解したカウンセラー探しやヘルパー探し、生活環境の整備は本当に難しいと思う。言葉を理解できても、その言葉の裏に隠されているニュアンスを理解できないと、本当の解決には至らない。その上、人種間の問題や滞在のステータスなど、それぞれ抱える問題があまりにも多様である。
 先日、「モンカッカ」をきかれて、はてな?「文句あるか」が、そう聞こえたとわかったときには皆大笑いした。そういえば、むかし高齢者から「今何時ですか?」を英語で尋ねるときに「掘った芋いじるな」で通じたと聞いた。
 雨の日、給食のおばちゃんブーツを履いていたら、「エレガンス」とか「ゴージャス」と言われ、このゴム長靴のどこが? 感覚が違うにしてもほどがある。戸惑うことばかりだ。【大石克子】

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