ほどほどの忘却

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 10年ほど前だったと思う、オレンジ郡に大きなショッピング・モールが完成した当初、建物内にまだ数カ所、入居が決まっていない店舗用のスペースが残っていた。そしてそれらのスペースを覆っていた板壁には装飾用に東西の有名人たちの名言がちりばめられ、前を通る人々を楽しませてくれていた。その言葉のひとつに次のようなものがあった。
 「Happiness is good health and a bad memory.」(Ingrid Bergman)「幸せとは、良好な健康状態と不良な記憶力から生まれる」(イングリッド・バーグマン)とでも訳せばよいだろうか。イングリッド・バーグマンとは、ご存知のハリウッドで活躍した往年の名女優だ。彼女は映画「カサブランカ」、「追想」、「オリエント急行殺人事件」などに出演、2度のアカデミー主演女優賞をはじめ、生涯に3回オスカーを獲得した。これほどの大女優といえども、「幸せ」の条件として「良好な健康状態」に加え「不良な記憶力」を挙げているのが興味をそそる。
 私も1年前にがんで大きな手術入院を経験し、病の転移・再発について経過観察中の身であり、健康の大切さはしみじみ実感しているところだ。記憶力についていえば、一般論としては「もの覚えの良さ」を自慢するのが普通だ。しかし考えてみるに、一生の記憶に留めたいと思えるほどの有意義な出来事より、出来たら忘れたいことの方がはるかに多いのが現実だ。厳しい映画界の中で生き抜いたであろうイングリッド・バーグマンも、きっと良い記憶ばかりではなかったのかも知れない。嫌なことは忘却の彼方へ押しやって幸せを噛みしめようとする彼女の気持ちが伝わってくる。「物忘れが多くなった」という後向き発想を「忘脚力が充実した」という前向き発想に変えるのも「幸せ」を実感する重要な要素といえそうだ。今回取り上げたイングリッド・バーグマンの言葉も、「a bad memory」とは「不良な記憶力」というより、「ほどほどの忘却」とでも訳したほうが適切なのかもしれない。【河合将介】

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