「佳緒里パワー」全開させ、日米を翔る:心に太陽を!いつも笑顔を忘れず!

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エミー賞のトロフィーを手にする奈良佳緒里ターナーさん(撮影・押本龍)

 人は、これまでの歩みを振り返ってみると、誰にでもそれぞれの出会いがあり、転機がある。ここに登場願ったメイクアップ・アーティスト、奈良佳緒里ターナーさんにとってそれは日本舞踊を習い始めた時であり、タップダンスとの出会いであり、浅草新世界という当代一のエンターテインメントの世界であり、ビル・ターナー氏との出会いであったということができる。今年で傘寿(80歳)を迎える今なお、周囲が舌を巻くほどのエネルギーを発散させ、太平洋をまたいで元気に日米両国を往復しながら活躍している。そんな若々しい佳緒里さんの歩みと生き方、素顔を追った。【石原 嵩】  
 
浅草新世界のクィーン

6歳から始めた花柳流舞踊で妖艶な踊りを披露

 とにかく、世に言う「元気印」はこの人のために創られた言葉ではないかと思えるほど、一年365日、東奔西走の毎日。かの宮沢賢治の詩ではないが、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル…」といった感じの佳緒里さん。ただし、「…いつも静かに笑っている」の部分は「…いつもカンラ、カラカラと高らかに笑っている」としたほうが正確だろう。朗らかで闊達な気性だ。
 終戦後、日本中が食糧危機にあえいでいた当時、食べるために14歳でダンサーの道を志す。16歳でプロデビュー。進駐軍のキャンプを訪問して、初めてコカコーラとハンバーガーを口にし、「アメリカ」を初体験。「コーラの味はともかく、ハンバーガーのおいしさにはビックリした」のを今でも鮮明に覚えている。
 22歳の時に、踊りと芝居で人気を集めていた浅草新世界の舞台を踏む。6歳で入門した日本舞踊(花柳流)、米国帰りの義兄の影響で始めたタップダンス、それに加えて体の柔らかさを生かしたアクロバットダンスをこなす。こうした異なる分野の踊りを器用にこなす能力を買われて、団員が常時150人から200人もいた中で、24歳の時にはついにトップダンサーという最高位にまで登り詰める。

河原での撮影会で、アクロバットダンスのワンシーン

 この間にも、日劇「秋の踊り」に特別出演するなど多方面で活躍。頼まれて色紙などによく書いていることば、「心に太陽を持っていれば、雨の日も風の日も、いつもニコニコ笑顔を忘れず」との心意気を信条としている、努力とがんばりの人。正に宮沢賢治の世界を具現するような歩みだ。
 東京・蒲田で町工場を経営していた父親は界隈では「発明家」として知られた存在で、生活に密着した実用品を多く世に送り出していた。なかでも、子どもたちに人気があった遊園地の「回転ボート」などで使われた「ナラ・ポンプ」の発明は高い評価を得た新案特許の傑作。
 また、子どもたちに絵や習字を教える先生でもあったことから、幼い佳緒里さんの芸術的才能を早くから見抜いていた。

ターナー氏にとって観音菩薩…
 「新世界」のあった東京台東区浅草は当時、日本随一の繁華街として知られていた大衆娯楽のメッカ。ランドマークとしての浅草寺山門である雷門は特に有名だし、仲見世はいつも賑わいを見せる。映画館や劇場、芝居小屋が軒を連ねる浅草公園第六区の興行街、歓楽街は日本のエンターテインメントの中心地。そうした中で「新世界」のトップダンサーの地位を守り抜く陰には、人知れぬ努力があったのは言うまでもないことであろう。
 ショーダンスの第一線で華々しく活躍しているなか、日本政府の海外文化使節団に選ばれると、スイス、イギリス、西ドイツなどヨーロッパ諸国やイスラエルなどで海外公演。各国を慌ただしく巡回して回り、アメリカではサンフランシスコ、ラスベガスでステージをこなす。ニューヨークでは3カ月間集中してダンススクールに通って踊りに一層磨きをかけている。
 その後、いったん日本に戻り、今度はアジア各国の有名ホテルを回るツアーに参加。このツアーで、後に夫となるハリウッドのメイクアップ・アーティスト、ビル・ターナー氏との運命の出逢いが香港での興行だった。
 その時、香港ではハリウッド映画「砲艦サンパブロ」の撮影が行われていて、主演スティーブ・マックイーンのメイクアップを担当していたのがビル・ターナー氏。この映画クルーが宿泊していたアンバサダーホテルのディナーショーに佳緒里さんは毎夜出演していて、ターナー氏らは毎晩のようにそこで食事。

仲人を務めてくれたスティーブ・マックイーン(右)とビル & 佳緒里ターナー夫妻。「砲艦サンパブロ」の甲板上で

 時と場所を同じくして、広い地球上の1点で2人が出会ったのは偶然であり、結果から見ると必然でもあったといえるのだが、ステージでゴムまりのように飛んで跳ねてアクロバティックに踊るかと思うと、優雅に日本舞踊を舞い、さらに軽快にタップのリズムを刻む佳緒里さんに出会ってから、ターナー氏が恋の炎を燃やすのに時間はかからなかった。
 仕事が押せ押せ気味で、出演者やクルーが神経質になっているときでも常に微笑みを絶やさず、持ち前の明るさで周囲を和ませ、ハッピーな気分にさせる佳緒里さん。東洋の地で出会った佳緒里さんのそうしたふるまいは、ターナー氏にとって正に観音菩薩に見えたに違いない。
 運命の出会いとも言える巡り合わせ。意気投合した2人は、あれよあれよという間に主演のスティーブ・マックイーンを仲人に、ロバート・ワイズ監督を父親役として、撮影セットの「砲艦サンパブロ」の甲板上で電撃的な結婚式を挙げる。1966年、佳緒里さん32歳のときである。
 18歳の時に結婚し、その後に離婚を経験している佳緒里さんはバツイチの生活をエンジョイしていたことや、何よりもショービジネスに没頭していたから結婚など考えられなかったはずだけど、ターナー氏とともに迎えた第二の春が、その後の一大転機へとつながっていく。
 後日談になるが、このときワイズ監督は「この2人の結婚は、もっても7年がいいとこだろう」と仲間内で賭けをしたという。それほどに関係者の多くが、あまりにも急展開で進んだ結婚に、お祝いする気持ちと訝る気持ちが半々だったそうだ。
 2人の結婚25周年を祝う会が小東京のホテル・ニューオータニ(当時)で開かれた際に、ワイズ監督は「賭けに負けて、こんなにうれしい気分になったのは初めてだ」と、あらためて祝意を表している。  

靭帯を痛め、焦燥の日々も…

 さて、香港での仕事を終えた2人はロサンゼルスに居を構える。佳緒里さんはニューヨークやラスベガスでの公演が続き、多忙な日々。

撮影の合間に、ショーン・コネリーと

 そのころのラスベガスは格調が高く、ホテル内の劇場やギャンブル場に入るときは男性はスーツにネクタイ着用、女性はロングドレスでないと入れてもらえなかった。また、劇場に出演している役者や歌手、ダンサーさらにメイクなどの関係者はどこのホテルでもドリンクは無料だったし、曜日ごとの当番制でホテルの食事もタダになるという、ショービジネス関係者が優遇されていた良き時代だった。
 しかし、好事魔多し。1971年のこと、佳緒里さんはラスベガスでのディナーショーに出演中、長年にわたる酷使がたたったのか、膝の靭帯を痛め、ついに三度のメシより好きだった踊りをやむなく断念。生涯現役のダンサーであり続けたいと願っていた佳緒里さん、37歳の時である。
 ロサンゼルスに戻った佳緒里さんはしばらく焦燥の日々を送る。だが、ターナー氏の計らいでスイス、イタリアなどのヨーロッパ・ロケに同伴しているうちに元気を取り戻し、あげくは出演者の腕や脚を奇麗に磨きあげるボディーメイクのヘルプを頼まれる。そうこうしているうち、メイクアップ・アーティスト・ユニオンの入会資格である「ヘルパーとして360時間以上の実働」をクリアーし、さらにボディーメイク、ビューティーメイク、特殊メイクなど3日間にわたる厳しい実技テストにもパスして、晴れてハリウッドのメイクアップ・アーティストとして誇り高き「ユニオン手帳」を掌中にする。佳緒里さん、40歳を過ぎてからの人生の再スタートだ。

モダンダンスやタップダンスも器用にこなす

 「朝の早い仕事で、通常は6時までにスタジオ入り。時には午前3時にロケ地に集合なんてこともあって、初めのころは慣れるのに大変で、結構辛かった」— 華々しいショーダンサーとしての表舞台から出演俳優のメイクを担当する裏舞台に身を置くようになった駆け出しのころを振り返る。
 それでも徐々にハリウッドの習慣にも慣れていく。「サウンド・オブ・ミュージック」の大ヒットでスターの座に登り詰めたジュリー・アンドリュースから指名を受けるようになり、それが励みにもなり、また一つ大きく前進するきっかけに。さらに、1983年に夫のターナー氏と一緒にメイクを担当した「フラッシュ・ダンス」は忘れることができない現場となった。
 この映画でみせた繊細緻密なボディーメイクで佳緒里さんは一躍注目されるようになったわけだが、それに加えてターナー氏が仕事中に倒れるという事態に陥ったのだ。仕事の上での師匠であり最愛の夫が病に倒れるという佳緒里さんにとって最悪の非常事態。
 「あれからは今まで以上に必死になって仕事に取組みました。仕事は選り好みせず、何でも引き受けたし、たとえ自信がなくても『イエス!』と答えて全力を尽くしました。分からないことは挑戦してみればいい。やったことがなければ、やってみればよい」との強い気持ちが自分を支えてくれたという。
 こうした佳緒里さんの仕事ぶりが認められて、この「フラッシュ・ダンス」からクレジット・タイトルにメイクやヘアーに並んでボディーメイク・アーティストの名前がスクリーンに出るようになっている。
 すっかりハリウッドにも馴染んだ佳緒里さん。大スターたちとのエピソードにも事欠かない。色っぽい恋愛話は少ないけれど、ショーン・コネリーに遠回しながらプロポーズされたこと、シャイで繊細で人情の機微に通じたクリント・イーストウッドとのランチ、ロバート・レッドフォードの背中でタップダンスを踊ったこと、アーノルド・シュワルツェネッガーに英語の発音を指摘して仲良しになったこと、ジャッキー・チェンを撮影所のコーヒー係りとして扱ったこと、ブルース・ウィリスらを鰹節入りおにぎりの虜にさせたことなど、拾い上げたら切りがないほどだ。
 
日本文化の継承を気にかけて…
 長くハリウッド映画とかかわっている中で、「どうしても納得できない、看過できないことがある」と佳緒里さん。外国生活が長い日本人におおむね共通して言えることなのだが、日本の伝統文化が正しい形で外国の人に伝えられているかどうか、という点だ。
 「アメリカの市民権を取ってからのほうが、かえって日本のことがすごく気になり、心配するようになりましたね」と胸の内を明かす。東日本大震災の際には、800セットの化粧用品を持って東北地方でボランティア活動にも精を出し、女性たちを勇気づける。

美輪明宏さんとは「ツー・カー」の仲

 また、ハリウッド映画では、生半可な知識のもとに日本文化が紹介されていることがよくある。例えば、和服の着付けがでたらめで「暴行を受けた後のような、襟元がだらしなく開いたままだったり、帯紐もない着付けがまかり通っていて、見ていると冷や汗が出てくる」ことも。これではいけないと、佳緒里さんはことあるたびに衣装係や出演者に正しい着付けの仕方を指導し、あげくは自宅を担保に銀行から30万ドル借金して、2005年にはハリウッドの関係者を集めて着物の歴史を綴った一大イベント「着物ショー」を精力的に開催して成功させるという、プロデュイーサーとしての能力も発揮する。
 「日本の誇る伝統文化が誤ったまま歪んで伝えられることは見過ごしできません」— 正しい形で日本文化を伝えたいとの気持ちはメイクアップの分野でも発揮され、昨秋9月にはメイクアップ・アーティ

佳緒里さん(右)の喜寿祝いには、仲良しのピクレディーも駆けつけた

スト・ユニオンのメンバーを集めて歌舞伎俳優と芸者、舞妓らの化粧法について実技指導を行っている。
 「ハリウッド流の化粧は初めにファンデーションを塗りますが、芸者などの化粧では初めに頬を紅色に化粧し、その上から白塗りをするとピンク色の頬が浮き上がってくるのです」と、ピエロの化粧法とは違うのだということを強調した。
 こうした活動を実践しながら、ユニオンの生涯メンバーとして名誉ある「ゴールド・カード」を保持している佳緒里さんは現在、アクティビティ・リタイアメント・アーティストと呼ばれる立場で、スターから指名を受けた際などハリウッドでの仕事を続けているほか、1年の半分は日本で講演活動や実技指導に当たっている。その忙しさの合間をぬってテレビ出演もこなし、「徹子の部屋」「開運なんでも鑑定団」「波瀾万丈」などのほかワイドショー、バラエティーショーにも多数出演。
 日米の芸能界に広い人脈を持つ行動派で、実践派の佳緒里さん。「人間が大好き」という「佳緒里パワー」全開の日々が今年もまた続けられていく—。
 
取材を終えて…
 趣味は「人間」と即答するほどに、人と話すのが大好き。記憶力もよく、23年前のターナー夫妻結婚25周年祝宴の末席に筆者がいたことまで憶えているのに恐縮。
 もう一つの趣味は読書。人間味があり、気持ちが落ち着くという池波正太郎作品が好み。山岡荘八の「徳川家康」(全26巻)は3回も読破し、本は雑誌を含めて毎月20冊ぐらい購入するというから並外れている。
 また、「困っている人に会うと、放っておけない」性格からか、自宅には居候的な同居者が常に3〜4人はいる。その間、居候の若い学生たちには「これで嫁に行ける」といえるレベルまで徹底して料理も教え込む。何とも世話好き。衰弱した捨て犬と出くわせば獣医にみせ、自宅に引き取る。
 けれど、あれもこれもと忙しすぎて体が持たないだろうとの心配は無用だ。医者から「骨年齢は45歳の丈夫さ」と太鼓判を押されているのが自慢の一つ。毎朝15分間のストレッチ体操が功を奏しているのだろうか。
 さらに、「お金を貸してあげても、返してくれた人は1人もいない」というほどのお人好しの面もあるが、「着物ショーで借りた30万ドルも返し終えたし、これからは日本とアメリカを舞台としたドキュメンタリー映画を撮りたい」との思いが強く、今はその企画を温めているところ。3年前には20分の短編ながら、カンヌ映画祭に出品した実績も。
 テレビ界のアカデミー賞といわれるエミー賞受賞(2003年)や日本政府から叙勲(2006年)されるなど、ショービジネスの世界で功成り名を遂げて今なお、ポジティブな思考で、明るく前向きな生き方を続ける佳緒里さん。プロのメイクアップ・アーティストだから「年齢を20〜30歳ぐらい若くみせるのは、お茶の子さいさい」というわけでは決してなく、艶やかで真に若々しい笑顔。彼女のカンラ、カラカラと響く笑い声が今年も社会を明るくしてくれるだろう…。  

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