久しぶりに日本での桜の季節を満喫してきました。春空を独占する桜、川面に枝垂れる桜、小学校の校庭で入学式を待つ桜。さまざまな場所で咲きほこる満開の桜は、同じ品種の桜であっても見る場所によって違った感情や思い出を持たせてくれました。
 何よりも、桜が咲いているというだけで、その下を歩く人たちに笑顔がありました。決して私たちのために咲いているわけではないでしょうけれど、嫌なことは忘れて、幸せでやさしい気持ちを持たせてくれました。
 武者小路実篤の文章に「天与の花を咲かす喜び 共に咲く喜び 人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」という言葉があります。
 ひとりひとりに与えられた自分自身の花を咲かす喜びを、一緒に咲き喜べることは、誰もが感じる幸せな気持ちです。そして誰かが自分を見ていても見ていなくても構わない、私は私自身の喜びとして花を咲かせるべきなのですね。
 桜は一年のうちの大半の時期を、ほとんど無視されて生きています。花が咲かなければ特に注目されず、見向きもされません。
 そして暖かくなると数週間だけ精一杯の花を咲かせるのです。このときには多くの人に注目され写真を撮られ、酒宴の場を提供し、笑顔の場をつくり出します。ですが、花を散らせたそのときから、真夏には日陰を与え、秋には葉も散らせ、寒い時期に誰にも注目をされていなくても、次に花を咲かせる準備をしています。
 たとえ短い間でも、たとえ小さい花でも、たとえ人々に注目されなくても、自分自身の花を咲かせることが本当に大切なんだよ、ということを教えてくれます。
 花は、花壇にあっても道端にあっても、その状況を憂うことなく、どんな状況にあっても命ある限り咲くのです。生きていれば注目されはやされることも、無視をされてさみしいときもあります。他人からどのように言われようと、無視されようとも花は咲いていることを忘れてはいけません。
 他人が、咲くことを強いているわけではありません。注目をされない時期には必要な準備をし、自分自身の意思で、自分色の花を精一杯に咲かせるのです。【朝倉巨瑞】

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