日本語が危うかった時

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 日本語は古来より変遷を続け今の現代語があるが、日本語自体をやめよう、日本文字をやめようという真剣な次元での危機が近現代で2度あった。維新後の明治新政府下と第二次大戦直後の日本だ。
 この歴史は碩学高島俊男先生の名著「漢字と日本人」に詳しい。字数の制約内で大幅に端折るが追ってみたい。
 維新後日本は西洋より何もかも遅れている、日本文化は遅れて価値がない、早急に進まねばならぬ、その方法は簡単だ、何もかも西洋のとおりやれば良いと政治、経済、産業、交通、教育、芸術とあらゆる物事を西洋に学び始めた。学ぶ根幹は媒体の言語であり日本語も遅れた価値の無いものだから変革しないと追いつけない、変えなければ日本国に未来は無いと考えた。ここから漢字の廃止と英語を日本の国語とする主張が生まれた。既に維新より前にも幕臣前島密が漢字廃止を将軍徳川慶喜に健言している。
 日本語を完全に捨て去り日本の国語として英語採用論を主張した人は多いが、最も著名なのは、有能で誠実な政治家で文部大臣であった森有礼だった。早稲田大学総長、文部大臣を歴任した高田早苗もまた日本語を英語にせよと主張する者の一人だった。
 森は米学者のホイットニーに「英語に変えなくば日本は先進国に並んで進むのは不可能だ」と手紙に書いている。ホイットニーは「言語は各人種の魂でありそう安易に放棄するなど言ってはならない」と忠告している。
 もう一つの主張が漢字の廃止、音標文字化の主張。代りの文字としてはローマ字派と仮名派に分れたが、日本政府は明治30年代に至り音標文字化を国の方針としたのだ。
 明治33年文部省に国語調査委員会が置かれる。委員会の役目は漢字廃止を前提に代りの仮名とローマ字とどちらが良いか研究することだった。漢字廃止は一挙断行せずまず許容漢字を制限し、次いで全廃する二段階方式を取った。
 ところが明治初頭からこの間に日本は西洋語に対応する数万という和製漢語を作り、洋化する生活で使い出した。この結果漢字の使用は江戸時代に比べ飛躍的に増加し、より必要な物になった。しかし政府方針は不変で中途半端な状態のまま戦後へと続く。
 戦後編はいつかまたの機会に。【半田俊夫】

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