思い出の小さな会話

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 夏休みに入って、バラエティに富んだ映画の新作が次々発表され、観客動員数や売り上げが競われている。
 もう20年ほども前のことだが、シカゴの小さな映画館で、映画評論家のロジャー・イーバート氏と映画を観たことがある。と言っても、彼は私の友人でもなければ、彼と一緒に映画館に出かけたわけでもない。
 週日の午後、古い白黒の日本映画だったが館内はガラガラに空いていて観客は20人もいただろうか。
 取り立てて映画ファンというわけではないのにどういう理由があったのか、この日私は一人、今はタイトルも内容も覚えてはいないこの映画を観に行った。この日、イーバート氏も一人で映画を観に来ていたのである。
 席が近かったためか、ふと私のほうを見たイーバート氏と薄暗い館内で目が合った。彼は軽く「ハァーイ」と言って、にっこりした。
 彼が夫人と共に小津安二郎監督の映画祭に招待されて、日本に行って帰ってきたばかりなのを知っていたので、「日本はいかがでしたか」と尋ねると「どうして知っているの?」と不思議そうな顔をした。
 「あなたの出発前に、秘書の方が日本に関する情報を集めるために、私に電話を架けてこられて…。映画祭はどうでしたか?」
 「ああそうか。うーん…。オヅは、オヅの映画は…素晴らしい。とてもとても良かった。あんな映画は、彼意外に創れる監督はいないだろうね。」
 ため息をゆっくり吐き出すようにそう言って、「それとね、日本の缶コーヒーはとてもおいしいよ。販売機から熱い缶コーヒーがでてくるんだ。あれは最高だよ」と突然話題を変えた。きっとこんな映画の解らない女と大切な小津作品について話すのは時間の無駄だと思ったのかもしれない。
 「オヅの映画は…」と言ったときの、素晴らしい芸術に触れたときの感動をそのままに輝いていた彼の瞳と、映画が始まるまでの間の、短い時間の小さな会話をふと思い出した。
 イーバート氏が他界してもう一年以上になる。今頃彼は小津安二郎監督と、熱い缶コーヒーでも飲みながら映画談義でもしているかもしれない。【川口加代子】

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