「舟を編む」

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 人間はしょせん他人の心の内はわからない。だからこそ心を開いて話し合う必要がある。その道具が言葉であり、言葉は時代と共に変わってゆく。時と共に常に新しい言葉が生まれたり消えたり残ったりする。どういう言葉を使えば自分の気持ちが相手に伝わるのか。人は膨大な言葉の海の中から適切だと思う言葉を探し出して口にする。しかし、相手に言葉の共通認識がなければ伝わらない。常に変化する言葉を時代と共に捉え、辞書という形で固定してその時代の言葉はしばし定着する。「舟を編む」とはそのような言葉の海を「大渡海」という辞書に編み直す作業に情熱を燃やす人たちの物語である。
 テレビの映画で「舟を編む」を見て興味を持ち、三浦しおんの原作を読んでさらに感銘を深めた。10年、20年とかかる地味な辞書作り。この本では「大渡海」の出版までに15年の歳月を費やした。情熱を燃やして取組んだのは最初から企画奮闘した監修の先生と元編集部員で定年退職した社外スタッフ、最終段階の辞書編集部員は主人公と新人の2名である。それに異動した他部署から協力する元の編集部員、辞書印刷の紙の開発に情熱をかけた印刷所の担当者、主人公の妻などが登場し魅力あるストーリーを紡ぎだした。変人ともいえるこの人たちの情熱と努力なくして「大渡海」は完成しなかった。
 昔から言葉には霊力が宿ると考えられた。文字に記すことで何千年も人々に影響を与え、口で発することで自分の心にも相手の心にも変化をもたらし大勢の人を動かす。ちなみに私の好きな作者は星野道夫。アラスカに魅せられた写真家、探検家、詩人である。彼の書いた本はどこから読んでどこで終わってもよい。選び抜いた言葉、過度に高ぶらず謙虚な文体は、私たちにアラスカの動物や植物を通じて太古の自然と人間の姿を伝えてくれる。古今、多くの作家がさまざまな言葉を紡ぎ感動的な本を著した。
 人間が言葉を持ち、その意味を共有しあって社会は進歩した。そのために不可欠な辞典の役割とその編さんに携わった人々の情熱と努力。「舟を編む」に接し、あらためて言葉の大切さと厳密さに気付かされた。【若尾龍彦】

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