「カリフォルニアのワイン王・長沢鼎」

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作家渡辺さん、幕末からの足跡たどる

渡辺さんの著書「長沢鼎―カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士」

渡辺さんの著書「長沢鼎―カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士」

 レイクウッド在住のノンフィクション作家渡辺正清さんが、「カリフォルニアのワイン王」と称される長沢鼎(ながさわ・かなえ、本名磯長彦輔、1852―1934)の評伝を昨年末に出版した。約150年前に遡る幕末の鹿児島から英国、ニューヨーク、北カリフォルニアと長期にわたって長沢の足跡をたどり、徹底的に取材した。「とにかく、すごい男」と言い表す渡辺さんは本紙に長沢の逸話を語り、日本を出て異国で暮らす在米日本人は長沢と境遇が同じだとし「それぞれの立場で読んでほしい」と希望している。【永田潤】

 日系移民史や日系二世兵、八島太郎、トーマス野口など、地元日系社会にかかわる著書を持ち、このたびの「長沢鼎―カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士」(南日本新聞開発センター)もまた、偉業を成し遂げたカリフォルニアに縁のある日本人を取り上げた。
 執筆のきっかけは、1970年代中頃、渡辺さんがカナダへ向かう旅路のワイン産地カリフォルニア州サンタローザで出会った老人から「日本人がここでワインを作っていたんだよ」と聞かされ、長沢の存在を知ったことから。そして、1983年に訪日したレーガン大統領が国会のスピーチで、自身が選んだ「三大日本人」の1人に福沢諭吉、松尾芭蕉と並び、長沢の名を挙げたことから、がぜん十数年前の記憶が蘇り「調べる気持ちになった」という。

英国アバディーンにある旧グラバー家。長沢鼎の部屋は、左側2階(渡辺さん撮影)

英国アバディーンにある旧グラバー家。長沢鼎の部屋は、左側2階(渡辺さん撮影)

 長沢の生まれた薩摩藩は、生麦事件に端を発した薩英戦争の経験から、近代化のモデルに英国を選んだ。鎖国時だった1865年の当時13歳だった長沢は、森有礼など将来を嘱望される15人の留学生の1人として英国に派遣された。長沢は2年間就学し、フランス語、ラテン語もマスター。だが、明治維新で国内情勢が一変したため、藩からの送金は途絶え留学生15人のうち、9人が帰国を余儀なくされた。
 残った6人の留学生も英国を去り、1867年にニューヨークへ移住した。ぶどう園に従事したが、5人が帰国し、長沢ただ1人となった。長沢は、ぶどう栽培により適した気候を求め、75年にサンタローザ(サンフランシスコから北へ約50マイル)に入植。当時は、山に川、集落が点在する田舎で、鍬を持ち、山を切り崩して、畑を作り、木を植え、地道に原野開拓に励んだ。
 カリフォルニアには、ミッションが21個所あった。「ミッション・ワイン」と呼ばれるものがあったが、儀式用に宣教師が作ったものに過ぎなかった。長沢は「ワイン作りには、科学が必要」と、カリフォルニア大学デービス校の教授に教えを請い、醸造技術を学ぶなど研究熱心だった。高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた。 
サンタローザにあるナガサワ・コミュニティー・パークへの入り口と景観

サンタローザにあるナガサワ・コミュニティー・パークへの入り口と景観

 長沢が所有した「ファウンテングローブ・ワイナリー」は成功を収めた。当地には、日本人は長沢ただ1人であったため、日系排斥の対象にはならず、人々からはワイン王「プリンス・ナガサワ」と尊敬された。地元へ多大な貢献を果たし、業績は新聞に取り上げられるほどサンフランシスコでは著名になった。渡辺さんは「長沢は、スコットランドで学び、アングロサクソン的な考えを持ち、威風堂々と町を歩いていたのだろう。サンタローザに来たのは23歳の時で、若くして成功したのにも注目したい」と述べている。サンタローザ市は2007年、長沢の功績をたたえ、農園跡地にナガサワ・コミュニティー公園を作った。
 好調なワインビジネスだったが、集中豪雨や渇水、病虫害に遭ったりし、5万本すべてのぶどうの木を失ったこともあった。さらに禁酒法(1920―33)により、ワイン作りに大打撃を受け「精神面で辛かったと思うが、愚痴をこぼしてはいない」(渡辺さん)。禁酒法の施行期間中は、世界恐慌の影響も受け、借金をしながら、なんとか、食用ぶどう作りでビジネスを継続させた。残っていたワインをパーティーで振る舞っていたものの、密造したり、売ったりしたこは1度もなかった。「売ってほしい」と頼まれたこともあったが、ワインの樽をその場で割って見せた。禁酒法は長沢の晩年にあたることから渡辺さんは「ワイン作りができず、気の毒だった」と、思いやる。
取材にこだわり、徹底調査
「自信を持って書くために」

 渡辺さんは、取材にこだわりを持ち、徹底した調査を重ね、妥協はなかなか許さない。1800年代後半から1900年代にかけての調査は、並大抵のことではない。鹿児島をはじめ、英国スコットランドに1カ月、ニューヨーク・エリー湖畔に10日間滞在し、サンタローザには20回以上足を運んだという。
渡辺正清さん

渡辺正清さん

 長沢が渡英するため自宅を出て、城下の家老宅に向かった当日を調べたのは、旧暦の正月20日(2月中旬)の鹿児島の気温は、「どれだけ寒いか」を知りたかったため。他の日記から、家老宅に午前7時に集合したことが分かり、天保年間の絵図で自宅からの経路と距離を調べた。「歩いて20分ほどなので、早朝6時過ぎに家を出た」と推測。鹿児島気象台に行き、当時の資料は当然なかったが、興味を持った予報官が測量開始からの平均気温を調べてくれ、1865年の2月の午前6時過ぎの気温は「摂氏6度くらい」と類推した。川沿いを歩いた長沢の「『吐く息は、白かった』。それを安心して書くため」に、そこまで調べたという。
 スコットランドでは、町の歴史を入念に調べた。下水道が通った年は、長沢の渡英した年で、当時の明かりはランプで、電気が通ったのは、英国を去る少し前。下宿先のグラバー家の部屋に入り、家から学校までも何度も往復した。当時の測量地図を見ると、周りは原野と畑。最新までの地図を調べたが「当時と寸分違いはなかった」とし、通学路と断定した。
 評伝執筆のための取材について「歴史との勝負。どれだけ調べられるか」と語り、図書館と郷土資料館に通い詰めた。「司書には、当時の様子を調べるいろんな本を紹介してもらい、力になってもらった」と感謝する。「ひとつの疑問を解くためにいろいろ調べるので、分かった時の喜びは大きい」と話す。「また新しい疑問が出て、また調べる。手間がかかるが、楽しい。書く時にどれだけ、自信を持って書けるのかにつながる」
日本人移民の先駆者・長沢
渡辺さん「各人の立場で考えて」

 長沢は、都合4度帰国したが、そのうちの1度は32年ぶり。米国に骨を埋めたが、望郷の念に駆られたこともあったという。明治新政府は、長沢のような海外で学んだ逸材を求めており、渡辺さんは「日本に帰れば、相当ないい職に就けたはずなのに…」と疑問を抱く。日本を揺るがした西南戦争(1877年)についても「長沢にも大きな影響を与えた」とし、「鹿児島の遺産の半分を失ったのではないか。そこには、西郷隆盛はもはやおらず、薩摩気質を持った長沢は居場所をみつけることができなかったのでは」と推測する。
 長沢は日本人移民の先駆者であり「われわれもアメリカに住み、帰国せずに残ってしまったという背景には、それぞれに、いろんなことがあるはず」と述べ、自身も留学生として渡米し「1、2年で帰国するつもりが、52年が経ってしまった。日本に住む人には、その気持ちは分からない」と指摘する。同書を読む人には「アメリカに残るか、帰国するかの決断をしたと思う。本を読みながら、それぞれの立場で考えてほしい」と望んでいる。
 渡辺さんは、長沢についての講演会を26日(日)午後1時から3時まで、日米文化会館内の日系パイオニアセンターで催す。講演は無料。予約が必要で、締め切りは24日。問い合わせは、電話213・680・1656。

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