知的散歩

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 自由な時間ができると、行きたくなる所がある。日本語書店である。街路樹が紅葉し始め、赤や黄色の落ち葉を足元に見ると「読書の秋」の言葉に誘われる。
 書店に入り、一番目立つ玄関口に平積みになっているのが、今、注目を集めている話題本。旬のもの。書棚におもて表紙が並んでいる本も目を引く。それらの新刊本をゆっくり、まるで鮮魚の品定めでもするかのように、見て回る。今、日本でどんな問題が起こっているのか、人々の関心は何なのか。見えてくるものがある。
 興味を引かれたものを、手に取る。まえがき、あとがき、見出しに目を通すと、およその内容が把握できる。それを何冊も繰り返す。まるで、散歩しながら、あちらの庭、こちらの垣根越しに見える花々を鑑賞するかのように。こんなに楽しいことはない。
 だが、先日、長年通った本屋が閉店しているのに出くわした。寂しい。「知の塞」として生き残りの努力をかけたはずだ。それも本が売れなければどうしようもない。ITのおかげで知識は無料で簡単に手に入るし、電子書籍もある。時代の変化に厳しい選択を強いられるのがビジネスだ。
 しかし、知識を自分の血肉にしようと思えば、使い倒せる紙の本に優るものはない。偉人伝はその1冊で一人の優れた人物の一生を疑似体験できる。その本を身近に置いておく事は、偉人と毎日一緒に過ごすに等しい。それで本は古来大切にされてきた。
 別の店で若い著者の本を3冊買ってきた。読み出したら止まらない。この一冊を書くために筆者は、千冊の本を読破したという。異国での何年もの実体験を伝える本もある。
 私の故郷、山口県萩の偉人、吉田松陰は処刑を待つ野山獄で、隣の罪人たちに学問の楽しさを教えたといわれている。知って死ぬことと知らずに死ぬことには大きな違いがある。
 血圧がどうの、コレステロールがどうのと言っている自分だが、一体、頭の中はどうなのよ、と反省することしきりである。
 知的散歩を提供してくれる数少なくなった日本語書店。その存続のためにも、紙の本を買い続けたい。【萩野千鶴子】

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