表にでない歴史

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 前回、過去から今、そして未来へと伝えられる歴史のさ中に自分たちもいる、と書いた。伝えられる項目で何が重要かではなく、生きている日々が歴史だと思う。ただ、記録に残るかどうかは別の話だ。記録の歴史だけが伝えられて、記録に残らない口伝の歴史は、広くは伝えられない。
 あまり耳にしたことがないのではと思う「隠れ念仏」「隠し念仏」について書かれているものを読んだ時も、広く伝えられていないが、今日だから少しずつ活字になって知られるようになったのだと思った。それも、一部の興味のある人たちに。
 自分が育った地域や家庭の中で行われてきたことが、どこでも行われていると思っていたら、情報伝達の進歩で他の地方での慣わしを知るところになって、同じじゃないと分かる。誰しも、そういう経験を持っているのではないかと思う。その習慣には、意味があるから伝えられてきたもので、表の歴史の陰で、多くの人々がこうして支え、虐げられてきたことが、こういうかたちに残ったというように。
 私は、岩手の出身だが、岩手の出身者に「どこ?」と聞いたとき、言いよどむ人に結構会っている。それは、田舎を卑下する、厳しい気候から貧しい生活を強いられてきた地域を隠そうという思慮が働いていたものと思う。「やませが吹くと飢渇(ケガズ)になる(夏に冷湿な風が吹くと冷害になる)」地域には、人に知られたくない現実があった。間引きや人身売買など生き残るためにやむなく行われたことでも、おおっぴらにはいいたくないことだ。こういう現実を知っていればなおのこと。こんなことを書くと、同郷人からは顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだが、私の知る限り、実際、半世紀前まであった。
 民話の里「遠野」や、メルヘンチックな宮沢賢治のイーハトーブに、空想の世界を重ねて憧れて他から来る人たちがたくさんいるが、それも悪くはない。ただ、岩手に限らず、人に話したくない歴史はあちこちにある。そこから、何とか抜け出よう、変えていこうという意識が働いて、豊かにしようと努力した結果が今につながっているということを忘れてはならないと思う。【大石克子】

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