函館を歩く

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 函館駅から外国語が飛びかう朝市の喧騒を抜けて、そのまま開港通りを進むと、道と道に挟まれた緑地帯に埋もれるように、誰も訪れることのなさそうな記念碑があります。地球儀を模した丸い石には南樺太の大ざっぱな地図が描かれており、それを覆うようなアーチ型の石には、「樺太引揚者上陸記念碑」という文字が刻まれていました。
 昭和20(1945)年8月15日、その頃の樺太在住の日本人は約40万人。その樺太はソ連軍の占領により、「残留者は一日千秋の思ひで、祖国への帰還を待った」と碑には書かれていました。実はこの中には私の父も含まれていました。
 東京で生まれた父は、少年期に祖父母を頼って樺太に渡っていました。ですから、父の少年時代の思い出のすべては樺太にありました。多くの自然に囲まれ、大泊(コルサコフ)や豊原(ユジノサハリンスク)の町並みも少年期の父にとってはかけがえのない遊び場であり、戻るべき棲み家でした。
 昭和21年からはじまった5回にわたる引揚船により、樺太の真岡から北海道の函館に約31万人が帰還しました。引揚船中で亡くなる者も多く、上陸後病気になって亡くなる者もあり、約千人以上がその犠牲になったことから、この記念碑が建てられたそうです。もちろん父は、無事に函館の地を踏むことができましたが、「命からがら逃げてきた」と言う父にとって樺太は忘れがたき故郷になっており、終戦後には祖父母の住む樺太に渡ろうと試みたそうですが、「稚内まで行って引き帰さざるを得なかった」ことは、無念であったに違いありません。
 かつて蝦夷地と呼ばれた函館、幕末の志士たちが闊歩し、明治期にかけて造られた町並みが残り、戦争によって運命を左右された多くの人たちが住んでいたことを思い起こさせます。5月にしてはすこし肌寒い海風を全身に感じながら、函館港が開港して100年、戦後70年、海を渡り未知なる地に夢を追った父の青春時代に思いを馳せて、函館をゆっくりと歩きました。【朝倉巨瑞】

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