村上さん、出版記念で講演:当時の逸話紹介、ファン喜ぶ

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日本人初の大リーガー

出版記念会で講演する村上さん

出版記念会で講演する村上さん

 日本人初の大リーガー、村上雅則(マッシー)さんがデビューして今年50周年記念を迎え、当時の活躍を紹介する書籍が4月に著された。村上さんは出版を記念し、著者ロバート・フィッツさんとともに米国10都市、13会場を回る講演会とサイン会を行った。【永田潤、写真も】

 村上さんは6日、国際交流基金ロサンゼルス文化センターを訪れ、参加者約60人を前に当時の逸話を紹介し、往年のファンを喜ばせた。同書「Mashi: The Unfulfilled Baseball Dreams of Masanori Murakami, the First Japanese Major Leaguer」(University of Nebraska Press)で書かれた内容をダイジェストとして紹介した。イベントは、同基金と南加日米協会が共催。
 法政二高時代に春の甲子園の優勝メンバーだった村上さんは、当時の南海ホークス(現ソフトバンク)から入団を誘われた。大学でのプレーを志望していたが、当時の監督、鶴岡一人氏が自宅を訪問し「契約したら、アメリカ(留学)に行かせてやるぞ」という言葉に乗り進学を翻意し、1962年に南海と契約を結んだ。

村上さんは、往年の名選手との対戦や試合前に談笑した思い出を紹介した

村上さんは、往年の名選手との対戦や試合前に談笑した思い出を紹介した

 監督が約束した通りに64年に渡米。サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下、フレズノのマイナーチームで投げた19歳は、好成績を挙げ、同年9月にメジャー昇格を果たす。その頃は、メジャー昇格の野心は、まったくなかったといい「修学旅行気分で、楽しむつもりで来たのが、メジャーに上がった」と、驚いたという。
 メッツ戦の初登板は、八回に訪れた。4万人の大観衆を前に動じることなく、スキヤキ・ソング(上を向いて歩こう)をハミングして気持ちを落ち着かせ、マウンドに向かったといい「マイナーで投げていた時のようにプレッシャーなしで、投げることができた」と話し、1回を無失点でデビューを飾った。

名選手と対戦、談笑も
慈善心はクレメンテから

 村上さんは当時を振り返り、野球殿堂入りした往年の名選手との対戦や試合前に談笑した思い出を紹介した。 
 あのサンディ・コーファックスとは、打者として対決。初球を空振りし、豪速球には太刀打ちできないと考えた。そこで、とっさにバントを思いつき、三塁線に転がし「精一杯走ってセーフ。ホームランじゃなかったけど」と笑いを誘った。伝説の大投手から安打を記録した唯一の日本人選手としては、あまり知られていない。
 メジャー最多安打記録を持つピート・ローズとは4度顔を会わせ、2本塁打を許した。敵地での練習中に話しかけられ、ローズは筋骨隆々の肉体から握りこぶしを見せびらかしたという。
 チームメートの大打者ウィリー・メイズからは、チームメート15人ほどとともに邸宅に招かれた。2階の寝室に呼ばれ、2人きりになり不審に思ったが突然、プレゼントを差し出された。「これがその時もらったカフスボタンです」と、披露すると会場は、どっと沸いた。

サイン会で、ペンを走らせる村上さん

サイン会で、ペンを走らせる村上さん

 暑い夏の試合前にクラブハウスを出て涼んでいると、相手チームの選手が近寄って来て「ヘイ、マッシー。俺の名前は、ロベルト・クレメンテだ」と名乗った。首位打者になったシーズンで好調を維持しており「俺とウィリー・メイズのどちらが、すごいと思う」と問われた。メイズは同年、本塁打王(52本)とMVPをとった絶頂期だったので「ウィリー・メイズだ」と答えると、あまりいい顔をしなかったというが、色紙にサインをもらったという。村上さんは他の数々の選手からもサインをもらい、宝物は今でも大事に保管しているという。
 クレメンテはその後、ニカラグアの被災地へ救援物資を届けた帰途に墜落事故に遭い他界した。慈善家クレメンテの影響を受けた村上さんは、野球評論家のかたわら、知的障害者のための「スペシャルオリンピックス」や、国連難民親善アスリートとしての活動を継続し、活動資金集めのゴルフ大会を開いているという。

「もう少し投げたかった」
帰国は「鶴岡監督との約束」

 65年のシーズンの終わりにジャイアンツは、村上さんとの契約延長を強く希望し引き止めに尽したが、南海側の保有権を認め手放すしかなかった。
 村上さんのメジャー在籍期間は、1シーズン1カ月と短かかっただけに「あと何年かプレーできればよかった。もう少し投げたかった」と、悔しさをにじませた。だが「鶴岡監督との約束があるから」と帰国し、「男と男の約束」を果たした。
 フィッツさんによると、この日米間の契約問題は当時、大きく取り上げられたが「新聞報道は、誤報だらけだった」と非難し、著書で契約を巡る問題の真実を明かしているという。「アメリカ残留を望み、将来が嘱望される弱冠21歳の若者にとっての日本帰国は、苦渋の選択だった」と思いやる。「自著で、マッシーがその時の胸中を打ち明け、読んだ人は感傷的になると思う」と述べ、「野球ファンのみならず、一般の人にも読んで喜ばれると思う」と勧める。
 フィッツさんは、日本のプロ野球を題材にした著書を4冊持ち、王貞治、ウォーリー与那嶺、杉下茂、広岡達朗、森祇晶、中西太の各氏など、引退・現役選手を多く取材した。「その中で、一番印象的な人物は誰だった」の記者の質問に「もちろん、マッシーだ」と即答し、「執筆のためにマッシーには2年かけて話を聞き、気持ちよく何でも答えてくれた。本の中には、マッシーの人柄の良さが表されている」と強調した。

サイン会を開く村上さん(右)とフィッツさん

サイン会を開く村上さん(右)とフィッツさん

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