戦後70年に考える

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 妹尾河童の自伝を映画化した「少年H」を見た。焼夷弾がパラパラと花火のように空から降って来る情景に、少年が思わず「きれいだ!」と逃げるのも忘れて見とれてしまう場面があった。神戸大空襲である。そんな無邪気な少年が敗戦で打ちのめされ、自殺まで考える。
 大空襲で焼け野原になったその地域からあまり離れていない、阪神地区で私は育った。終戦時は4歳。防空壕の中で貰ったチョコレートのような白い塊「ブドウ糖」の甘さの記憶が少し残っているだけだ。そばには高い尖塔の教会があった。その教会のおかげだったろうか、幸いなことに地域は爆撃をまぬがれた。小学校の行き帰りには、建物がなく基礎石だけの場所があったが、あれが焼夷弾が落ちた焼け跡だなどと思ってみもしなかった。校舎は黒が剥げて灰色のまだらの迷彩模様になっていてモダンにさえ感じていた。
 中学校は神戸に電車通学したが戦争の爪痕などは微塵も感じなかった。10年ほどで完全に復興していたのだろうか。校舎も伝統の古いままの建物であったから、焼け残ったのだろう。今考えるに、自分の周りに戦争の「カゲ」が全くなかったことが不思議で仕方がない。私はそんなにぼんくらだったのか。
 思えば親や周りから「戦争」という言葉も体験談も聞いたことはなかった気がする。みな復興に必死で過去を振り返るより、心は未来にのみ向かっていたのだろう。
 『いまなお原爆と向き合って』を著した大竹さんの母が、被爆で「九死に一生」ほどの体験をしながら49年の間なにも語らなかったと知った時(あゝ)と思った。自分が「思い出しとうない」それ以上に、8歳を頭に三人の子供によけいな心の患いをかけたくないという母心が強かったのではないかと思う。
 当時中学生くらいだった人が、多感な時期に、一番悲惨な体験にさらされたのではないかと、本紙の投書などで知り、痛ましく思う。
 広島の市電が原爆投下の3日後にはもう走っていたという。信じられない復活力だ。日本はもう二度と戦争の渦中にあってはならないと、つくづく思う。【中島千絵】

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