響き渡る琉球箏曲の調べ:箏と共に歩む照屋勝子師範に聞く

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伝統を継承し、普及に努める興陽会ロサンゼルス支部

首里城を模したステージで演奏する照屋勝子(中央)

首里城を模したステージで演奏する照屋勝子(中央)

 琉球箏曲興陽会ロサンゼルス支部の創立50周年記念公演「響き渡る」(The Journey of Sound)を昨秋11月、沖縄本部、ハワイ支部などから人間国宝を含めた特別ゲストを迎えて大成功裡に終えた照屋勝子支部長に、琉球箏曲との出会い、箏とともに歩んできた長い道のり、今後の抱負などについて話をうかがった。

十・十空襲に逃げ惑う

琉球箏曲興陽会ロサンゼルス支部の照屋勝子支部長

琉球箏曲興陽会ロサンゼルス支部の照屋勝子支部長

 時は、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)10月10日、米海軍機動部隊は沖縄を含む南西諸島の広範囲に大規模な空襲を仕掛けた。後に十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)と呼ばれたこの5波に及んだ集中無差別攻撃により、那覇市の町並みは90%以上が焼失した。
 その那覇で生まれ育った勝子は当時、まだ6歳の可愛い女の子だったが、焼け出されて着の身着のまま。母親ツルと妹、弟、それに従兄弟と手を取り合って命からがら戦火を逃れ、沖縄本島北部の伊是名村の親戚を頼って3日3晩、歩きづめ。空腹に耐え、疲労困憊(こんぱい)の状態ながらも、なんとか生き延びる。
 どうにか終戦を迎えた勝子は、「自分は長女だから、しっかり母親を支えていかなければいけない」と自覚して家事の手伝いや妹たちの面倒をよくみた。南方方面へ出征していた父親は戦後、なんとか帰還できたものの、マラリアにやられて体はかなり衰弱していた。
 戦後の混沌とした環境の中で、勝子は伊是名村の小、中学校に通う。成績は常に学年トップで、卒業まで学級委員長を務める。運動神経も抜群で、いつも徒競走の選手に選ばれ、颯爽(さっそう)とゴールのテープを切る姿は男子生徒のあこがれの的(まと)だった。同級だった校長先生の息子にはいつも追い回されていたという「マドンナの宿命」も味わっている。

単身、那覇に戻り高校生活

 中学を終えると、進路を決めなくてはならないのだが、進学したくとも当時の伊是名村には高校がなかった。同級生の多くが家業を継いだり、畑仕事をしたり漁に出たりする仕事を選ぶなか、勝子は迷わず生まれ故郷の那覇に単身戻る決心をする。
絵画に描かれた、箏を弾く照屋勝子

絵画に描かれた、箏を弾く照屋勝子

 入試倍率が高く難関といわれていた那覇商業高校に見事合格。従姉妹の家に下宿しながら勉学に励み、卒業すると沖縄銀行に就職する。その前年には、家族も那覇に戻ってきて、食料品や日常雑貨を扱うグロッサリー店を経営するようになっていた。
 このグロッサリー店の3軒うしろに、琉球古典音楽野村流の大家として知られる幸地亀千代、琉球箏曲興陽会のナヘ先生夫妻が住んでいた。この偶然が、勝子と琉球箏曲との出会いにつながっていく。
 ナヘ先生は毎日のように卵を買いに店に来ていたので、母は幸地夫妻と親しくことばを交わすようになる。もともと芸事が大好きな母だったが、戦争や子育てに追われて稽古ごとを習う時間などなかったので、幸地夫妻から聞かされる琉球芸能の話は母にとっては興味深く、とても貴重な内容ばかりだった。

母の最後のことばに発奮
 グロッサリー店の経営も順調に運んでいたし、母は自分の若い頃にかなわなかった夢を娘の勝子に託すかのように幸地ナヘの教室へ勝子を入門させた。
 勝子はといえば、母親の芸事大好きなDNAをそのまま引き継いでいたのだろうか、稽古に通うのが待ち遠しいくらい、箏の世界にのめり込んでいく。

創立50周年記念公演を終えて生徒さんたちと記念撮影

創立50周年記念公演を終えて生徒さんたちと記念撮影

 それでも、高校を卒業したばかりの18歳の青春真っ盛りだ。たまには友達と映画を見に行ったり、おしゃべりに夢中になって稽古をサボることも。帰宅した勝子は稽古に行った振りをして、サボったことなど決して母には言わなかったのだが、「勝子さんは、今日も稽古に見えませんでしたね」とナヘ先生から母に連絡があったようで、すべてバレてしまっていた。
 そんな時、母は特に勝子を叱ることはなかったが、ずっと後になって病いに倒れた母が病床で、「勝子や、お箏の稽古だけは続けなさい」と、諭すように話すことばが遺言になろうとは…。それほどに母は勝子の腕を見込んで、期待を寄せていたのだろう。母の最後の言葉を涙ながらに聞いた勝子は、これまで以上に発奮して稽古に励んでいくのだった。
 思えば、幼いころは芸事とはほとんど無縁だった勝子だが、両親が経営するグロッサリー店が縁となって、勝子と琉球箏曲は結びついたし、結婚話にもつながっていったのだから、振り返ってみれば、正に「縁は異なもの味なもの」、とはよく言ったものである。

箏曲が縁でハワイ二世と結婚
 勝子は1960年、ハワイから幸地亀千代のもとに三線を習いにきていた日系二世の仲宗根盛松と結婚。翌年、ハワイに居を移したあとも、琉球箏曲の研鑽(けんさん)に励み、68年に興陽会本部から師範免状を受ける。
 琉球音楽を習う人が多いハワイで、支部長を三期6年にわたり務めたころ、ロサンゼルスに住む長女スーザンが第一子を出産。孫の世話を1年だけする約束で、98年にロサンゼルスに来たものの、お箏を習いたい、教えてくれ、という人が次々と尋ねて来る。

ハワイで生徒に囲まれる照屋勝子(左端)

ハワイで生徒に囲まれる照屋勝子(左端)

 乞われるままに稽古をつけているうちに、ロサンゼルスでの生活にも慣れ、気がつけば2004年にはロサンゼルス支部長に就任し、琉球箏曲の継承と普及、それに後継者の育成にも力を入れる日々が続く。1年だけという約束も、どこかに飛んでいってしまったほどに「住めば都」で、ロサンゼルスが大好きになってしまった。
 2008年10月には、師範となって40年を記念する師籍40周年記念公演「箏虹(くとうぬーじ)」をレドンドビーチ・パフォーミング・アートセンターを満席にして盛大に開催。これまでにロサンゼルス、サンフランシスコ、オーシャンサイドのほか、ニューメキシコ州、テキサス州にも教室を開設し、約20人の師範、教師を育ててきた勝子は、「ただ、黙々とやってきただけ。皆さまのおかげです」と謙虚に、簡潔に、琉球箏曲とともに歩んできた心境を語っている。

「八重山古典民謡」の普及

 琉球箏曲は、1700年代の初頭に京都で八橋検校の直弟子から箏曲を学んだ薩摩藩士に指導を受けた稲嶺盛淳が琉球に伝えたのが始まりとされる。琴と胡弓と三線、太鼓、笛が織りなす琉球宮廷音楽のアンサンブルは、ゆったりとした演奏法で、エレガンスな調べを奏でるのが特長といえる。
ガーデナ市の稽古場には100年前の箏も置かれている

ガーデナ市の稽古場には100年前の箏も置かれている

 稲嶺盛淳の流れを汲む琉球箏曲は、もともとは三線の伴奏楽器だったが、今日では独自の歌唱を持つ楽器として沖縄の歴史と文化の中で洗練され、箏曲による地謡、独唱法も確立した伝統芸能に発展を遂げている。そして、琉球箏曲興陽会(本部・沖縄)は1940年3月に結成され、今年で創立76周年を迎える。沖縄のほか関西、関東、ロサンゼルス、ハワイ、ワシントン、ブラジル、ペルー、アルゼンチンなど19支部で構成され、会員数は約1600人に及ぶ。 
 ロサンゼルス支部には現在、約40人のメンバーがいる。この中には、バンドを組んで活躍している音楽的センスの良い高校生も4〜5人いて、「こうした若い人の成長を見るのがとても楽しみ」と語る勝子。若者の感性に合うように曲をアレンジして教えたり、「花」「涙そうそう」などの沖縄情緒あふれる最近のポピュラーソングを箏曲用にアレンジすることにも挑戦。こうした曲を演奏会などのプログラムに組み入れ、伝統的な古典楽曲と同じステージで演奏すれば、若い世代にももっと興味を持ってもらえるのでは」との考えから、若者の才能を伸ばしていくためのアイディアを少しずつ実践している。
琉球箏曲の演奏前に写真に納まる照屋勝子

琉球箏曲の演奏前に写真に納まる照屋勝子

 このほかに、これから取り組みたい課題として挙げるのが、民謡の宝庫といわれている「八重山古典民謡」の普及だ。
 「八重山地方のことば、発音は、沖縄とは少し違うのですが、箏曲を学んでいるアメリカ生まれの若い生徒たちに発音してもらうと、けっこう上手に発音するので、驚いたくらいです。幸い八重山古典民謡の教師免許も所持しているので、これから機会あるごとに教え、広めていきたい」との熱き思いを実行に移していくという。 
 太平洋を隔てて、ハワイ、ロサンゼルスと半世紀以上にわたり琉球箏曲の継承、普及に努めてきた道のりは、必ずしも平坦ではなかった。そうした山あり谷ありの境遇を乗り越えて、ウチナーンチュの心の宝ともいえる沖縄芸能がアメリカの地に響き渡る、興陽会ロサンゼルス支部50周年記念公演でもあった。
 「箏の音の奏でる奥深さにひたすら感動し、魅了され、今日までやってきました。ほかの稽古ごとと同じように、箏の修業は厳しく険しい道のりですが、これからも挫折しないで、しっかり継続していきたい」との真摯(しんし)な意気込みが、人びとの心を捉える。(敬称略)

 【インタビューを終えて】

昨年、沖縄で開催された琉球古典芸能コンクールで入賞したプレホダ富男(右)、赤嶺多美子(左)と照屋勝子

昨年、沖縄で開催された琉球古典芸能コンクールで入賞したプレホダ富男(右)、赤嶺多美子(左)と照屋勝子

 60年以上も弾き続けているという貴重な絹糸弦の箏を前に、もの静かに受け答えする照屋勝子師範。琉球箏と山田流、生田流の箏そのものに大きな違いはないが爪にはそれぞれ特徴があること、低音に調律する琉球箏の調弦法、昔は象牙製だった箏柱(ことじ)も今では樹脂製になり、弦もほとんどがナイロンやテトロン製になっていることなど、分かりやすく説明してくれる。
 興陽会沖縄本部が認めるほどに琉球箏曲界の重責を担っているにもかかわらず、偉ぶるところが全くない。毀誉褒貶(きよほうへん)は世のならい、ホメ千人にケナシ千人だとしても、生徒たちから「勝子先生」と呼ばれて慕われ、その謙虚な姿勢に人望が集まる。支部長のほか北米沖縄県人会芸能部長なども務め、折々の記念公演には多くの指導者クラスがこぞって参加してくれるほどに、協力を惜しまない。
 箏のほかは「何も趣味はありません」と謙遜するが、ハワイ時代に手にしたウクレレを少しだけ弾き、その音色を楽しんでいる。また、小さい頃から体を動かすことが好きで、中学、高校とバレーボールの選手。かつては熱心にゴルフもプレーしたが、今では箏に専念し、手先を動かすのみだという。手先きといえば、手料理も得意で、外でおいしい料理に出会えばレシピを手に入れて自分で料理する懲りようもみせる。
琉球箏曲興陽会の師範・教師免許伝達式であいさつする照屋勝子支部長

琉球箏曲興陽会の師範・教師免許伝達式であいさつする照屋勝子支部長

 若い有望な生徒が入門してくれば「誕生日パーティーを開いてあげて、若者向きにアレンジした箏曲を聞かせて、興味を継続させる工夫をこらす」といった気配りも忘れない。大学進学のために芸事を止めてしまう人も多いので「できれば、続けて稽古に通える近場の大学に進学してほしい」と本気で願う。勝子先生の琉球箏曲に対する一途な情熱は、未来を照らす明るい炎となって、琉球箏曲興陽会は静かながらも着実に一歩ずつ、前進を続けている。【石原 嵩】

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