情感を記億の底に積み重ねる

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 昨今、朝の7時はまだ明けきれず、夕方の7時はもう真っ暗である。朝も夕も2時間ずつお日さまがどこかに行ってしまったようだ。
 夏の夕は9時頃まで日が残っていたのに、今はあっという間に暗くなる。「秋の日はつるべ落とし」日本語はなんて適確な表現だろうと膝を打つ。そのきめ細やかな表現があまりにもぴったりで、とてもこの情感は英語では表現できないだろうと思う。海外で、俳句や短歌にいそしむ人の数の多さは、日本語の持つ優れた表現力への郷愁ではなかろうか。豊かなものがそこにあるから、たくさんの人々を惹き付ける。
 四季があり、雨風や天災に翻弄されながら農業を生活の糧として生きてきた昔日の日本人。だからこそ彼らが自然の変化にいかに敏感であったか。自然に対するわれわれ日本人の独特の情感は米国の日常生活には何の足しにもならないが、その情感を大切にし、維持し続けることは、そのまま豊かな時間を生きることにつながるのかもしれない。同じ時間を生き、同じ経験をしても思考や情感の記億を蓄積しなければ、生きた時間の濃度に雲泥の差ができる。
 9月末の今、気の早い家では既にハロウィーンの支度が始まっている。去った夏を惜しみながらも、次の行事の準備をし、未来に向かってゆく人間の知恵がある。そこからしか生きるエネルギーは湧いてこない。
 日本画家の東山魁夷の作品に「残照」という作品がある。明日生きているかも分からぬ戦時中、生活は困窮し、画家を目指す彼に突破口はない。そんなある日、高原から見た何の変哲もない山の風景に彼は魂を打たれた。暮れ行く山々と遠く澄んだ空を見渡した時、彼は残照の香り漂う風景の中に静かな祈りにも似た諦念の世界を見た。風景の中に精神性を見る彼独特の感覚である。この絵で彼はついに画家としての道を歩み始めた。
 残照の山脈の風景に、われわれの人生の姿を重ねて見ることもできる。苦悩と悲哀を経て辿り着いた静かな祈りの世界。穏やかに暮れる秋の夕日の中にもそれがある。【萩野千鶴子】

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