日米をめぐる家族の物語(第2回):やっと会えた実母、そして別れ

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65年の歳月を経て再会を果たしたテリーさん(左)と実母の君子さん=昨年10月撮影(写真=吉田純子)

 千葉県柏市に住む島村直子さんは、伯父で画家の故・島村洋二郎の息子で、3歳の時に養子として米国にわたったいとこのテリー・ウェーバーさん(鉄さん)を30年にわたり探し続けてきた。
 東京の乳児院や児童相談所、アメリカ大使館のほか、テリーさんの養父母が卒業した大学にも問い合わせるなどしたが、努力も虚しく手がかりは一向に見つけられなかった。
 万策尽き果てたある日、テリーさんがトーレンスに住んでいることが判明。昨年3月、遂に2人は対面を果たすことができた。そしてこの出会いは家族のさらなる物語の始まりでもあった。
 それはテリーさんが実の母を探すところから始まった。テリーさんの実母・君子さんは、テリーさんが生後間もない頃、夫である洋二郎の元を去っていた。以来、テリーさんは君子さんの消息を探ったことはなかった。しかし、昨年8月、テリーさんは君子さんを見つけ出し、実の親子は67年の歳月を経て、再会を果たすこととなったのだ。果たして君子さんはどこにいたのか―。
 第2部では日米をめぐる母と子の物語をお届けする。【取材=吉田純子、グウェン・ムラナカ】

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実母・君子さんを探して

テリーさんの実父・洋二郎が描いた君子さん(島村直子さん提供)

 いとこの直子さんと対面を果たしたテリーさんはその後、一大決心をする。それは実母・君子さんを探すことだった。
 それまで実の親のことを調べようと思ったことはなかった。ある時、養父ジョー・ウェーバーさんが実母を探したいか尋ねてきたことがあった。しかしテリーさんは「お父さんたちが僕にとっての家族だから」と断ったという。「たとえ実母を探し出せたとしても『なぜ電話してきたの? なぜ会いに来たの』と言われてしまうのが恐かったのです」
 妻のシャロンさんとともに君子さんを探し始めたテリーさんは昨年7月、全米日系人博物館(JANM)の「日系祖先の見つけ方」というセミナーに参加。そのほか先祖を何世代にもわたってさかのぼりルーツを探るインターネットサービス「アンセストリー・ドットコム」や「Beenverfield」なども活用し探し始めた。
 しかしさまざまなデータベースを活用しても、どうしても君子さんの旧姓「田澤君子」に該当する名前は見つけられなかった。
 もう実の母に会えることはないだろうと諦めかけていたその時、救いの手が差し伸べられる。それは直子さんだった。テリーさんを探し出すため30年にわたって日本でリサーチを続けてきた直子さんは、君子さんが現在「ローシュ君子」になっていることを突き止めていた。直子さんは君子さんの名前が変更されていることをテリーさんに伝え、手元にあった君子さんに関する資料も送った。
 テリーさんとシャロンさんは早速、直子さんから教えてもらった「ローシュ君子」という名前で調べてみた。するとついに該当する人物が見つかった。住所はカリフォルニア州モントレー郡パシフィックグローブとなっていた。

不思議な偶然の連続

 君子さんは洋二郎の元を去った後、米国人男性のアルヴィン・ローシュさんと出会い結婚。その後渡米し、長男アランさんと長女アラナさんが生まれた。データベースで該当した住所はアランさんが現在建設中の自宅だった。
 テリーさんにはメルバさんという妹がいるが、彼女はパシフィックグローブ在住で、驚くことにアランさんが建築中の家の数ブロック先に住んでいた。さらにその住所はテリーさんが足しげく通っているゴルフコースのすぐ側でもあった。「よく行く場所の近くだったなんて。不思議な偶然の連続でした」とテリーさんは語る。
 そして昨年8月、君子さんが実際に住んでいる場所がグレンデールであることも判明。君子さんの所在が分かったテリーさんは勇気をふりしぼり、手紙を書くことにした。手紙には自身が養子になったことを証明する出生証明書と、君子さんと洋二郎が写っている写真を添えた。
 手紙を受け取った君子さんの長男アランさんは最初、何かのいたずらかと思ったという。「でも出生証明書はあるし、名前も日にちも話の流れも合う。写真を見ても『これってうちのおふくろだよね』ってすぐに合致したのです」。手紙にはぜひ一度会いたいとつづられていた。

テリーさん(左から)と談笑するアラナさんとアランさん

 それから3週間後の昨年9月、君子さんとテリーさんはついに会うことになったのだ。
 君子さんはアランさん夫妻とともにグレンデールで暮らしていた。実の親子は同じロサンゼルス郡で一度も会うことなく暮らしていたのだ。「こんな近くに実の母がいたなんて。知った時は驚きしかありませんでした。もし直子と会えていなかったら、僕は一生実母と会うことはなかったでしょう」とテリーさんは話す。
 「もしかしたらすれ違っていたかもしれない―」。アランさんとテリーさんは、行きつけのレストランも、よくいくゴルフグッズの店も同じだったのだ。あまりにも多い偶然に「兄弟」は驚きを隠せなかった。

日米のやりとり支えたもう1人の母

 ここでテリーさんの育ての母について触れておきたい。テリーさんにはかね子さんというもう1人の育ての親がいる。ジョー・ウェーバーさんと妻のエスタさんは中野区の乳児院でテリーさんのほか日本人のアンナさんを養子として迎えた。しかし1961年に養母エスタさんが他界。その後、ジョーさんが再婚した相手が日本人の有賀かね子さんだった。
 毎年テリーさんはかね子さんの住むシーサイドに年に2回ほど会いにきてくれるのだという。かね子さんからすると、テリーさんは親子というより、友達みたいな存在なのだそうだ。

テリーさんの実母・君子さん(右)と育ての母のかね子さん

 かね子さんとジョーさんにはその後ジュリアさん、メルバさん、サムさんの3人の子供が生まれ、かね子さんはテリーさん、アンナさんを含め5人の子を育てあげた。かね子さんとジョーさんに子供が生まれても、テリーさんはお兄さんとしてほかの子どもたちに優しく接してくれていたという。
 「育て方より生まれつきのものが大きい気がします。私には5人子どもがいますが、テリーみたいな子はいない。娘たちはみなテリーをとても尊敬しているのです」とかね子さんは話す。
 こんなエピソードもある。昔クリスマスカードを作った時、家族みんなでカードに絵を描いていると、テリーさんだけ絵があまりにうまく驚いたという。画家だった父親・洋二郎譲りの絵の才能は幼い頃からテリーさんに宿っていたようだ。
 さらにかね子さんは日本語で書かれた直子さんからの手紙も英語に訳しテリーさんに教え、日米のやりとりを陰で支えていた。

母と子、遂に再会

 67年の歳月を経て昨年9月、遂にテリーさんは実の母である君子さんと再会を果たした。10月にはテリーさん一家と君子さん一家がテリーさんの自宅で集まり、家族水いらずの時を過ごした。
 「まさか生きている間に会えるとは思いませんでした。(テリーのことは)誰にも話さなかったし、自分の心の中だけに納めて生きていこうと思っていました」。君子さんはそうつぶやいた。
 「諦めていましたからね。死ぬ前に会うことはないと―。だから初めて会った時、立派な青年に成長してくれていて本当にうれしかった。みんな『家族が増えたよ』って喜んでくれたのです」


テリーさんの実父・洋二郎(左)と実母・君子さん(テリー・ウェーバーさん提供)

 君子さんによると、洋二郎との出会いは学校だった。横須賀市立第三高等女学校(現逗子高校)の学生だった君子さんは同校で美術講師として働いていた洋二郎に「絵を描かせてほしい」と頼まれモデルになったのがきっかけだった。その後ふたりは交際を経て結婚。テリーさんが生まれた。
 「洋二郎が亡くなったのを知ったのはだいぶ経ってからです。アメリカに来てから知りました。誰からも知らされなかったのです」と君子さん。
 「あの頃は世の中何も知らない子だった―。終戦と同時に父を亡くし、私の母も大変だったと思います。今では夫のローシュや親戚も亡くなり、子ども2人と孫2人の家族だと思っていました。そしたらテリーが現れたのです。息子(アランさん)は飛び上がって、『お兄さんができた』と喜んでくれました。孫も増えみんないい人で良かった」と君子さんは話す。

「あなたがいなかったらテリーと会えなかった」。テリーさん(中央奥)を30年にわたって探し続けていた直子さん(右)と初対面を果たし感謝の気持ちを伝える君子さん

 10月に来米し、実の親子の再会の現場に立ち合うことができた直子さんは「テリーが君子さんと会えて本当に良かった」と涙を浮かべ喜んだ。「あなたがいてくれたからテリーと会うことができた。あなたがいなかったら会えることはなかったでしょう」。君子さんは何度も直子さんに感謝の言葉を掛けた。
 「直子が僕と実母を引き合わせてくれた。もし直子があの時、書店で本を手にとらなかったら。もし僕を探そうとしてくれなかったら。僕たち親子は今この瞬間を迎えられることはなかったと思います。直子には感謝しかありません。家族の絆をあらためて感じました」とテリーさんは話す。

「お母さん、会えて良かった―。愛しているよ」

 こうして実の親子は再会を果たし、その後も交流は続いた。テリーさんと君子さんは君子さんの長女アラナさんも交えてランチに出かけることもあった。
 しかし幸せな時間はそう長くは続かなかった。今年2月25日、君子さんが亡くなった。87歳だった。


君子さんがテリーさんの日本語名「鉄」を書いた習字。テリーさんに贈った最初で最後のクリスマスプレゼントとなった(写真=マリオ・レエス)

 昨年のクリスマス、君子さんはわが子テリーさんに初めてクリスマスプレゼントを贈った。それはテリーさんの日本語名「鉄」と書かれた習字だった。アラナさんによると君子さんはただひたすら30回も書き直しながらテリーさんのために字を書いていたという。あまりに精魂込めて書いていたため墨がすぐなくなり、アラナさんは墨を買い足しに行ったほどだったという。
 高齢な上、脊髄側湾症を患っていた君子さんにとって、30回も書き続けるのは容易なことではない。全身の痛みをこらえながら君子さんは真心込めたプレゼントをわが子に贈った。この習字が母から子へ、最初で最後のクリスマスプレゼントとなった―。
 母の思いに応え、テリーさんも君子さんにプレゼントを用意していた。それは若かりし日の君子さんの写真をモデルにしたパステル画だった。
 父・洋二郎と同じようにテリーさんも君子さんを描いた。しかし君子さんの突然の死―。テリーさんが君子さんにプレゼントを渡すことは叶わなかった。


君子さんの写真(左)をもとにテリーさんが描いたパステル画(テリー・ウェーバーさん提供)

 実母の死を受け、テリーさんは母との再会をこう振り返った。
 「67年の歳月の後、遂に母と会うことができ、『お母さん』と呼ぶことができて本当に幸せでした。母の口から『愛してる』と言ってもらえたことは、僕の人生の中でもっとも素晴らしい瞬間でした。結核の乳児感染から僕を守るため、乳児院に僕を預けざるを得なかった母―。戦後の動乱の中での母の苦悩を理解しています。母と再会の日を迎えられるまで、たくさんの人たちに支えられてきました。今すべての人に感謝したいです。そしてお母さん、会えてよかった。愛してるよ―」

親子の再会を祝し、テリーさん(後列左から5人目)一家と実母の君子さん(前列中央)一家が集結。テリーさんの育ての母かね子さん(前列左端)、アランさん(君子さんとローシュさんとの間の長男=後列左から3人目)、アラナさん(君子さんとローシュさんとの間の長女=同4人目)、日本から訪れていたてりーさんのいとこの直子さん(同6人目)、テリーさんの妻シャロンさん(同7人目)らが集まった=昨年10月撮影(写真=吉田純子)

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