日本の「ものづくり文化」紹介:往年の名車19台、輝き放つ

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ピーターセン自動車博物館

1966年式日産シルビアCSP311を背に写真に納まる関係者。左から中村史郎さん、レズリー・ケンドールさん。奥の左上の車は、1962年式日野ルノーPA62

 世界から集めた300台以上の車を所蔵するロサンゼルスのピーターセン自動車博物館で、日本の自動車産業とその「ものづくり文化」を組み合わせた特別企画展「The Roots of Monozukuri: Creative Spirit in Japanese Automaking」が催されている。50年以上も前に作られても色褪せることなく、輝きを放つ往年の名車19台を通して、職人魂が漂う日本の自動車産業のものづくりの原点が見えてくる。【永田潤、写真も】

 1936年から69年までのファミリーカーからセダン、ロータリーエンジン搭載のクーペ、三百数十台しか製造されなかった希少なスポーツカーなど、日本が誇る伝統の幅広いラインナップ。トヨタ・コロナ(1965年式)、日産シルビア(66)、トヨタ2000GT(67)、ホンダN600(68)、ホンダS600(68)、マツダ・コスモ(69)などそうそうたる顔ぶれで、クルママニアなら垂ぜんのビッグな展示だ。

世界で希少なトヨタ2000GT

 こうしたライバルメーカーの名車が一堂に並ぶのは、日本ではなく、米国ならではの光景だという。展示は、各メーカーが日本で保存・展示している車両を今回の企画展のためにはるばる輸送したほか、米国各地の自動車博物館そして個人コレクターが、イベントの趣旨に賛同し貸し出した。
 同館の歴史部長のレズリー・ケンドールさんは、日本車に的を絞った理由を「日本は優秀な車を作るので、日本車だけの紹介をずっと前からやりたかった。最初の構想から言うと20年くらい前になり今回、ニッサンや各社から車を提供してもらい、来館者が日本の歴史的な自動車産業について学ぶことができる展示がやっとできとてもうれしい。協力者に感謝している」と述べた。日本のものづくりの精神を取り上げたことを「単なる日本車の展示にしたくなかった。戦後からわずか四半世紀で、これだけ素晴らしい車を作った技術と、ものづくりの精神を来館者に学んでもらいたい」と願った。
 ケンドールさんによると、同館の日本からのこの同年代の輸入コレクションは、トヨタ・クラウン(65)と日産セドリック(64)の2台のみのことから「これだけの日本車、しかも日本の名車が一堂に会するのは、誰もが見ていて爽快」と胸を張る。「これだけ大掛かりな展示ができたのは、1社だけではだめで、われわれの博物館だけの力でも無理だった。日本の各メーカーがアメリカとわれわれピーターセン博物館のために協力してくれたからこそできた。各メーカーとわれわれとのすばらしいコラボレーションになった」と日本のメーカーの協力に謝意を表した。

1954年式の住江製作所・フライングフェザーを撮影する来館者

 この時代の日本車は、外国メーカーと提携し、技術を取り入れながら日本独自の進化を遂げた。戦後の復興期を経て、ベルトコンベアによる大量生産で自動車大国への道を歩み出した。国内市場は燃料の石油を輸入に頼る日本らしく、燃費がよく経済的で実用的な排気量360ccの軽自動車が主流だった。
 熟成した国内市場の次に目を向けたのは、もちろん海外であり、世界の市場をリードしていた欧米各国に追いつけ追い越せと意気軒昂。だが、360ccのエンジンは米国では、コンパクトの枠にも達しないほどの小ささだった。またフリーウエーを走るのにも非力だったため、国際基準・規格に合わせてエンジンとボディーを大型化させた。
 芸術的な流線形の洗練されたデザインにパワフルなエンジンの好パフォーマンスに加え、故障が少なく、耐久性を兼ね備えた「Made in Japan」は世界で愛されていった。展示車は、そうした世界市場に切り込むために投入した各社の主力モデルの「日本代表」だった。外貨を獲得した自動車輸出で国際競争力をつけ、日本の高度経済成長の原動力となった。
 展示の開幕式に招かれたデザイナーの中村史郎さんは、いすゞ、日産で数々の名車を世に送り出した。あいさつに立ち、同館全体の展示について「日産の1500ccのスポーツカーから6000ccのレースカーまで、多種多様で幅広く紹介されている」と褒めた。企画展については「日本の自動車産業における日本の文化と技術、デザインに絞った初めての画期的なイベントで、日本の自動車産業史を知ることができる。この機会を逃せば、数十年後しかない」と、貴重な展示であることを強調した。

展示初日の開会式であいさつに立つ中村さん

 あいさつ後も各メディアに囲まれた中村さんは、展示車の時代を振り返り「日本の車が外国で大事にされ始めた頃だった。高度経済成長で、日本のものづくりが成長した時代を象徴していて、独特の日本の文化が色濃く出ている」と力説。「経済と社会が成熟した今だからこそ、昔を振り返る余裕があり、昭和の車のいいところを再発見できる。今日ここに来て昔の車が、よくできていることがあらためて認識できた。どの車も素晴らしいデザインばかり。言うことない素晴らしい展示だ」と絶賛した。
 展示では、車とともにパネルには当時の各社の説明、写真、そしてビデオが上映されている。試験室での開発の設計やボディーのデザインは、コンピューターがない時代は、もちろん手描き。バンクのついたコースや悪路でのテスト走行、徹底した製品検査、工場での生産ラインなどが映し出され、今日まで受け継がれた伝統の日本の自動車産業の礎が見える。展示では自動車生産の歴史、技術、デザインそして、ものづくりに対する技術者たちの情熱が伝わってくる。
 経済的に余裕が出て、心にもゆとりが出始めたこの頃のレジャーは、どこへでも自由に行動できる「ドライブ」だった。ピクニックや海水浴、箱根などへの家族旅行の友は、いつも「マイカー」が一緒。展示に訪れると、父が乗っていた愛車や免許を取って初めて買った人生最初の車、子供の頃に憧れた車などとの「再会」が待っているかもしれない。特に団塊世代にとっては、謳歌した青春のど真ん中。人生の1ページには、必ず1台の車があるはず。昭和の懐かしい思い出が甦ってくる。
 入場料は一般大人16ドル、シニアと学生は13ドル、3歳から12歳は8ドル。
Petersen Automotive Museum
6060 Wilshire Blvd,
Los Angeles, CA, 90036
323-930-2277
www.Petersen.org

ホンダ時代を懐かしむ
元整備士の岡田さん
N600と再会「汗と涙の結晶」

 関係者を集めた展示初日に訪れたサンゲーブリエルに住む岡田信行さんは、日系社会では写真家として知られるが、日本のホンダの研究所で四輪車開発の立ち上げに携わったことを知る人は少ない。引退後の今は、日系非営利団体の写真教室の講義で熱弁を振るうが、この日は、54年前に試作車を組み立てたホンダN600を興味深く見ていた若い日本車ファン4人に「特別講義」を買って出た。

ホンダN600をバックに日本車ファンの来館者と写真に納まる岡田さん(左から2人目)

 エンジンは空冷で、シートベルト、ヘッドレスト、パワーステアリング、エアバッグ、エアコンなどは皆無と説明。「今の時代から見るとデザインも作りもシンプルで、おもちゃのようにも見えるけど、世界最高クラスの高燃費で、世界に引けをとらない日本の最先端の技術が詰まっている」などと力説した。ただ「ボンネットを開けて、エンジンルームを見せて説明してあげたかった」ことが、心残りだったようだ。
 同館会員のサンゲーブリエルから来たギルバート・ロブレスさんは岡田さんの話を聞き「シンプルな作りだけど、当時のホンダの技術の高さを知り、制作者の意欲が感じられた」と語り、展示については「これらの小さな日本車が、コレクターズカーになった理由と価値が分かった」と語った。
 約10人の整備チームの一員だった岡田さんは、N600を前に「ホンダの技術の粋を集めて作った僕たち社員の汗と涙の結晶」と、感慨深げに表現。N360を基に排気量を上げたN600は、輸出仕様だったため町で走る姿を見ることはなかったという。渡米したオレゴン州でN600を初めて目にし「感動して震えたね。自分たちが頑張って作った車がアメリカ大陸を颯爽と走っている。自分の子供が幼稚園の運動会で走っているのと同じようにうれしかった」。N360については「埼玉工場から出荷された時は、従業員全員で手を叩いて喜んだ」と、青春時代を思い起こした。
 24歳で入社した当時は二輪部にいたが、四輪部門に異動。だが、なかなか完成車が作れず、試行錯誤と失敗の毎日を過ごした。そこでの岡田さんの作業は、ホンダの創設者の本田宗一郎の下で、エンジンの組み立てやボディーへの積み下ろしなどを担当した。宗一郎は当時からカリスマだったが、みんなから「オヤジ」と、親しみを込めて呼ばれていたという。

スバル360 K111(左)とホンダS600クーペ

 人まねを嫌った宗一郎について「パテントは買うな。自分で考えろ。他よりいい物を作れ」などと、他社を参考にすることはなかった。その考えを定着させ、独創性に富んだアイデアが生まれ「オヤジの発想は、代々伝わり今でもホンダの社風として根付いている」
 「アイデアがすごかった。ものづくりの『神様』『大家』」と崇める。自動車レースが好きで、負けず嫌い。スピードが出る重量の軽い車体作りを常に目指していたという。
 「自分のために働け。会社のために働く奴は帰れ」と怒鳴られたという。だが「みんなよく怒られたけど、笑って褒めてくれる優しさがあった。社員と同じ作業着で働き、同じ社員食堂で食事し、同じトイレを使い、現場では僕たち下っ端の若い社員の平凡なアイデアにも耳を傾けてくれた」。大会社の社長のイメージからかけ離れ「優しく、気取らず、ありのままで、本音を言う職人の気質の町工場にいる大将のようだった」
 「ゴミを出すな」と徹底したのは、部品の製造コストと処理費用の無駄を減らすためで「今はエコが当たり前だけど、あの頃から地球環境や資源の節約を考えていた。今思うとすごい」と、先見の明に驚く。冗談気味に「企業秘密」で明かせないという「売れる車」の特徴も習ったといい、技術者でありながら「松下(ナショナル社長)、盛田(ソニー社長)と同じで、経営者の資質を持っていたと思う」
 渡米後もメカニックとして生計を立てた岡田さん。ホンダで叩き込まれた、ものづくりの精神を持ち続け、妥協を許さず、安全走行という責任を負い、完璧な整備を努めた。写真との出会いも、ホンダの研究所で写真班が必要になり、写真術を習ったことからだった。「ホンダで働いてよかった。オヤジと一緒に働けたのも、お金では買えない僕の一生の財産になった」と述べた。

ホンダN600を前に来場者に説明する岡田さん(右)

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