日本から最初にアメリカ本土に入植し、若松コロニーを形成した先人たちの古写真。入植後に近郊の町ピラサービルに当時あった写真館で撮影したものだ(写真=吉田純子)

海渡り「若松コロニー」形成
日米両国にいる末裔、先祖への思い

小高い丘の上にある小さな墓―。このカリフォルニアの大地に眠るのは、今から150年前、日本から最初にアメリカ本土にやってきた移民団のひとりで、アメリカ本土で最初に亡くなった「日系移民の女の子」の墓だ。彼女の名は伊藤おけい(以下、おけい)。
1869年(明治2年)、夢と希望を胸に会津若松(福島県)などからやってきた移民団22人はカリフォルニアにアメリカ本土初の日本人入植地「若松コロニー」を形成した。彼らは日本からアメリカ本土に渡った最初の入植者だ。プロイセン人の武器商人ヘンリー・シュネル率いるこの移民団は、戊辰戦争に破れた会津藩の侍などで形成され、カリフォルニアの地で茶と絹の栽培を試みる。しかしわずか2年で若松コロニーは崩壊。その後、彼らは日米で別々の人生を歩むこととなる。
2019年はこの最初の日系移民がアメリカ本土に入植してから150周年を迎える。そして今、日米両国にいる彼らの末裔が羅府新報に先祖への思いを語ってくれた。
150年前にアメリカ本土へと海を渡った先駆者たちの勇気と開拓者精神に思いを馳せ、この記念すべき年に彼らの歴史をここに振り返ってみたいと思う。【取材=吉田純子】

アメリカ本土で最初に亡くなった日本人女性おけいの墓。墓参りに来た人が手向けた花や、おけいの故郷会津の郷土玩具「赤べこ」もお供えされていた(写真=吉田純子)

カリフォルニア州北部エルドラド郡ゴールド・ヒル―。1849年にジェームズ・マーシャルがアメリカン・リバーのほとりで金を発見しゴールドラッシュの発端となった場所(現在のマーシャル・ゴールド・ディスカバリー州立歴史公園)からほど近い、こののどかな田園風景が広がる土地に日本からの移民団はやってきた。
彼ら以前にもアメリカ本土に足を踏み入れた日本人はいる。41年、漁に出たまま遭難し、アメリカの捕鯨船に救助され、そのままアメリカ本土に渡ったジョン・万次郎(中浜万次郎)や、51年に航海中、船が難破し、アメリカの商船に助けられそのままアメリカ本土に渡り日本人として初めてアメリカ市民権を取得した浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)などだ。しかし本格的な入植を目的にアメリカ本土に渡ったのは彼らが初めてだ。
一行は会津若松などからの移民団。かつての会津藩の侍や大工、農家とその家族などで構成され、当時の時代背景から、さまざまな思いを胸に海を渡ってきたのだろうと想像する。
彼らが海を渡る前年の68年には戊辰戦争が勃発。旧幕府軍と新政府軍が新政権を巡り戦ったこの戦争で、旧幕府軍だった会津藩は敗北。この戦いで登場した白虎隊の悲劇は今なお語り継がれている。
移民団がアメリカに渡ったのはその翌年。このような時代背景の中、一行は船に乗り込み新たな地を目指したのだった。

日本人一行は「自由人」
威厳に満ち、地元紙も歓迎

こうして移民団の先発隊がサンフランシスコ港に到着したのは69年(明治2年)5月20日。その模様は、同年5月27日付の当時のサンフランシスコの地元紙「デイリー・アルタ・カリフォルニア」やサクラメント近郊の地元紙「メリーズビル・デイリー・アピール」の紙面でも報じられている。
記事によると、日本北部に10年住んでいたプロイセン人のヘンリー・シュネル率いる日本人3家族がサンフランシスコ港に到着し、これから茶と絹の生産を始める計画であることが記されている。そして米国一の絹を生産するため、日本から桑の木5万本をはじめ、600万粒の茶の木の種、植物ろうの木500本、竹などを持ち込み、まもなくほかの家族も到着する予定だと書かれている。
興味深いのは記者の目に写った日本人一行の印象が記事の中でつづられていることだ。
恐らくこの記事を書いた記者にとって人生で初めて日本人と対面した瞬間だったことだろう。記事では日本人一行は「農奴ではなく自由人」とあり、「大変教養があり洗練された紳士たちで、その家族も高貴である」と褒めたたえている。
また「一行はアメリカの法律を完璧に理解し、それに従うだろう」とし、「米国の資源を発展させるための技術と産業を持ち込んでくれた」と書かれている。
当時はゴールドラッシュの波にのり、中国から大量の移民が押し寄せ、労働力競争から彼らに対する差別があったような時代。そんな中、地元紙は一行を威厳に満ちた人々であると紹介し、到着を歓迎していたのである。

妻は日本人女性、和名も
シュネルとは一体何者?


移民団のメンバー(名前不明)(ARC提供写真)

移民団を率いたシュネルとは一体何者だったのだろうか。記事ではシュネルは日本語を流暢に話すプロイセン人と書かれている。
シュネルがいつ日本にやってきたのか正確な時期は不明だが、プロイセン領事館の翻訳書記官を務めた後、ヨーロッパの武器を販売する武器商人となった。会津藩主の松平容保はシュネルの顧客の1人で、軍事顧問として重用。シュネルは松平の家臣たちに武器の使用方法を教えた。松平からは「大将」の位のほか和名「平松武兵衛」を授かり、武士の娘「じょう」と結婚することを許された。
しかし、戊辰戦争で会津藩は敗北。シュネルは松平にカリフォルニアに新天地を開拓することを提案。戊辰戦争に敗れ、領地を没収された松平はカリフォルニアに会津の未来を見出しシュネルに託したのかもしれない。こうして69年4月、松平の支援のもと、妻と幼い娘、そして子守りのおけい(当時17歳)と移民団を引き連れ渡米。新天地を目指したのだった。


移民団、意気揚々と入植
茶と絹の栽培を計画

それから一行は69年6月8日にはゴールド・ヒルに到着。デイリー・アルタ・カリフォルニア紙はその後も一行の動向を報じている。同年6月16日付紙面にはシュネルがゴールド・ヒルにあるグレイナー家から「グレイナー農場」を購入したとある。この場所が若松コロニーだ。現在も跡地に残る家は54年にグレイナー家のチャールズ・グレイナー氏によって建てられたものだ。
記事ではシュネルが購入した土地は絹と茶の栽培に適し、これから敷地内に各家族の家を建て、桑と茶の木をそれぞれの家族に割り当て、栽培する予定であることが紹介されている。
計画によると、各家族が蚕の飼育や、繭の手入れをし、その質と生産量で給料を受け取り、生産された生糸は輸出もしくは国内メーカーに販売される。茶も同様に各家族が茶の葉を栽培し、茶葉を摘み、工場に送付するまでの工程を行い賃金が支払われるといったものだった。
同年10月24日付の同紙には新たに男女13人が到着したと報じられており、若松コロニーの入植者は合計22人になった。


わずか2年で崩壊
茶と桑の木は枯れ全滅

しかし順風満帆な日々はそう長くは続かなかった。その後、若松コロニーをめぐる状況は一変する。
当時カリフォルニアはゴールドラッシュ全盛期。若松コロニーがあった場所の近郊では次々と金が発見され、採掘が行われていた。金の採掘には水が不可欠。その金の採掘現場から流れ出た汚染物質により、若松コロニーの桑や茶の木は汚染され、水不足などの要因も重なり枯れてしまったのだ。
71年8月6日付のデイリー・アルタ・カリフォルニア紙には、若松コロニーの崩壊が報じられる。記事によるとこの土地の赤みがかった土は、通常茶の栽培に適しているとされ、日本から持ち込んだ茶の木は順調に成長しているかに思われた。しかし、金山から流れ出た鉄や硫黄などの成分を含んだ水に茶や桑の木は汚染され、次第に枯れはじめ全滅。シュネルの計画は失敗に終わったと伝えている。また月給4ドルという給料も入植者たちの生活を圧迫。異国で家族を養う苦難も重なり、こうした状況下から若松コロニーは崩壊したと経緯がつづられている。
シュネル一家は金策のため日本に行くと言い残し若松コロニーを去るが、二度と戻ってくることはなかった。その後の行方は分かっておらず、本当に日本に行ったのかさえも分かっていない。日本に戻って殺されたという説もある。

アメリカ本土で最初に亡くなった日本人の女の子

新天地開拓の夢破れ、入植者たちは若松コロニー崩壊後、日本に帰る者、同地に残る者、それぞれの道をたどった。
跡地は隣人だった農場主ビアキャンプ家が買い取り、その地に残ったのはシュネルの子の子守りだったおけいと元会津藩士の桜井松之助、大工の増水国之助の3人となった。そしておけいと桜井はビアキャンプ家に雇われた。
おけいは会津若松の大工・伊藤文吉とお菊の長女で、渡米前から近くに住むシュネルの子の子守りをしていたという。わずか17歳で親元を離れ、カリフォルニアにやってきたが、若松コロニーは2年で崩壊。シュネル一家は去り、言葉も違う異国に取り残された。だが彼女を引きとったビアキャンプ家はおけいのことを本当の娘のように可愛がったという。


おけいを題材にした小説「Keiko’s Kimono」の著者でもあるARCのハーブ・タニモトさん(写真=吉田純子)

ドイツ系移民で初代ビアキャンプであるフランシス、ルイーサ・ビアキャンプ夫妻には6人の息子がおり、おけいはその幼い子どもの子守りとなった。
「ビアキャンプ夫妻の子どもたちは全員男の子。かつて女の子がいたが早くに亡くなってしまったようで、おけいを本当の娘のように可愛いがったようです。特に妻のルイーサはおけいが自分の息子の誰かと結婚してくれないかと夢見ていたようです」。そう語るのは、現在若松コロニーの跡地を管理運営する自然保護を目的に活動するNPO「アメリカン・リバー・コンサーバンシー(ARC)」のハーブ・タニモトさん。タニモトさんは若松コロニーに関する調査、研究を行い、おけいを題材にした小説「Keiko’s Kimono」の著者でもある。「ビアキャンプ家の家族みんながおけいのことを『ジャパニーズ・プリンセス』と呼んでいたようです」

若松コロニー崩壊後、おけいを引きとり我が子のように可愛がったとされる初代ビアキャンプ一家。前列左からフランシス、ルイーサ夫妻。後列2人目が長男のヘンリー氏(ARC提供写真)

故郷会津若松の方角に向けられているおけいの墓(写真=吉田純子)

ビアキャンプ一家から大切にされていたおけいだったが、71年夏、突如熱病にかかり3日後に帰らぬ人となってしまった。わずか19歳だった。
アメリカにわたる娘の背中を日本で見送ったであろうおけいの父と母はおそらく、娘の死を知らぬまま生涯を過ごしたとされる。
故郷を離れ、遠いアメリカの地で19歳という若さで亡くなったおけいの死を不憫に思った桜井は、当時墓石は高額だったにもかかわらず、遠いところまで大理石の墓を買いに行き、おけいのために墓を作った。
桜井が作った墓はひびが入り老朽化が激しく、現在ある墓は大理石で新たに作られたレプリカだ。
言い伝えによるとおけいは生前、夕日が照らす小高い丘の上にひとり佇み、時折、会津若松の方角を眺めていたという。故郷を思い、会えぬ父母を思っていたのかもしれない。今その場所に彼女は眠る。
彼女の墓が見つめるその先は、遥か遠くにある故郷会津若松だ。1957年には会津若松におけいの記念碑が建てられ、おけいが眠るカリフォルニアの方角を見つめている。

おけいの墓知れ渡る
日系社会で一大旋風

若くしてアメリカに渡り、19歳という若さでこの世を去ったおけい。その墓は死後、長く知られることはなかった。墓を尋ねる人も、花を手向ける人もなく、1人寂しくカリフォルニアの大地に眠っていた。こうしてアメリカの土に眠る最初の日系移民の女の子となった彼女の存在は忘れ去られたかに思われた。しかし、ある記事がきっかけとなり、彼女の存在は広く日系社会に知れ渡ることとなる。
1913年8月29日付の邦字新聞「新世界」には「コロマ近郊に明治4年(1871年)に建てられた日本人の墓がある」と書かれた記事がある。この記事の中ではおけいの名前こそ出てこないが、かつてそこに日本人一行がおり、茶山造営に失敗したとあることから恐らく若松コロニーのことであろう。71年はおけいが亡くなった年であり、場所と死亡年はおけいと一致する。しかしまだこの時点ではおけいの存在は広く知られていない。
世に知れ渡ったのはその後、サンフランシスコの邦字新聞「日米新聞(現在は廃刊)」の記者・竹田文治郎(雪城)がおけいの墓の存在を最初に記事にしてからだった。コロマ在住の果樹園経営者・国司為太郎氏の情報のもと、日本人のものとみられる墓の場所に竹田が行き記事にした。この記事によりおけいとその墓の存在が広く日系社会に知れたのだった。
24年7月12日付の日米新聞に「自分がおけいの墓について書いた『おけいの墓に詣でる記』を書いてから8年がたった」と書かれた記事があり、「自分が『おけい』を覚束ない(おぼつかない)筆ながら世に紹介して以来―」との記述がある。筆者はペンネームとみられる名前を使っているが恐らくこの筆者が竹田ではないかと思われる。だとすると記事が書かれたのは1916年。おけいの存在が世に知れたのは死から半世紀近く経った後だった。
その後、20〜30年代の地元の邦字新聞にはおけいに関する記事が多数掲載され、アメリカ本土で最初に亡くなった女の子の話は日系社会で一大旋風を巻き起こした。おけいの墓参りツアーも頻繁に実施され、おけいの物語を伝えるラジオ番組も制作されたほどである。

浮かび上がるおけい像
目輝かせ思い出語るヘンリー氏

ここにある新聞記事が残されている。そこからアメリカという異国で、現地の家族から大切にされ、わが子のように愛されていたおけいの姿が蘇る。


ヘンリー・ビアキャンプ氏(ARC提供写真)

記者はおけいが眠る墓の敷地の主にインタビューをする。それが初代ビアキャンプ家の長男ヘンリー・ビアキャンプ氏(1851―1934年)だった。彼はおけいがビアキャンプ家に引きとられた時から家族の一員として一緒に過ごした人物だった。記事によるとおけいとは良き友で、おけいのことがとても好きだったようだ。
「純潔な品の良い日本娘であった―」。頬を赤く染めそう話すヘンリー氏はこの時すでに80歳。おけいがビアキャンプ家に引きとられた時、彼は19歳だった。すっかり年老いたヘンリー氏だったが、おけいのことを話す時、彼の目は輝き、その様子を見ていた記者は彼がまるでおけいのことを愛していたかのようだったと書く。(「日米新聞1931年4月23日付」)
ヘンリー氏によると、おけいは西洋の洋服は着ず、いつも色鮮やかな美しい着物を着ていたそうだ。またおけいが息を引きとった場所はヘンリー氏たちが暮らしていたビアキャンプ家の一室だったという。
その時ヘンリー氏はシュネルの遺留品である短刀を保管しており、取材に来る記者に見せていたようだ。またおけい以外にも若松コロニーには「みわ」「おきよ」という女性がいたことも証言している。(「日米新聞27年9月26日、31年5月14日付」)
ARCのタニモト氏によると、ジョン・ヴァン・サント著書の「パシフィック・パイオニア」にもヘンリー氏の証言で、「おけいは英語をそんなに話さなかったがとても明るい子で、母から教わった縫い物や料理をすぐに習得し、母からもとても気に入られていた」とあることから、ビアキャンプ家から大切にされていたおけいの人物像が浮かび上がる。

侍だった桜井松之助
2017年に墓発見

おけいが亡くなった1871年までに若松コロニーがあったゴールド・ヒルには桜井松之助と増水国之助の2人が残った。


コロニー崩壊後はビアキャンプ家に仕え、生涯をカリフォルニアで過ごした桜井松之助(ARC提供写真)

会津藩士だった桜井は34年(推定)に生まれ、カリフォルニアに来た時は35歳だったとされる。
若松コロニー崩壊後、桜井はビアキャンプ家に雇われ一家が運営する農園で働いた。ビアキャンプ家から厚い信頼と尊敬を寄せられていた桜井はおよそ30年、ビアキャンプ家に仕え、農園の責任者にまで昇進。1901年2月25日にこの地で永眠する。
桜井の墓は長らく発見されていなかった。しかし2017年、近郊のコロマにあるパイオニア墓地で見つかる。
ARCのタニモト氏によると言い伝えでは、桜井の墓の側には目印となる木が植えてあり、その木の下に彼は眠っているとされていた。しかし目印となっていた木が倒れてしまい、以来、墓の正確な所在が分からなくなってしまっていたという。
しかし4、5年前、当時95歳だったビアキャンプ家の末裔パール・バトラー氏にARCが話を聞いたところ、彼女が桜井の墓の場所を覚えており、発見するに至った。
17年に98歳で亡くなったパール氏が生前、ARCに語ったところによると、彼女の父エドルフ・ビアキャンプ氏が桜井の墓の場所を知っていたのだという。桜井はエドルフ氏の父つまりパール氏の祖父にあたるエグバート氏に仕え、その農園で働いていたという。桜井の亡骸はビアキャンプ家が埋葬した。
17年に桜井が眠るその場所に墓石が設置され、住職を招き供養が行われた。
67歳(推定)で亡くなった桜井は生涯結婚することなく、一人この地で生涯を終えた。侍だった彼は忠誠を誓った主人に生涯仕えたのだった。


桜井松之助の墓(写真=吉田純子)
地元女性と結婚した増水国之助。今も末裔がカリフォルニアにいる(ARC提供写真)


地元女性と結婚した増水国之助
今もカリフォルニアにいる末裔

大工だった増水国之助(1849―1915)は若松コロニーがあった場所の近くの町コロマにとどまり、当時コロマにあったコロマホテルやフレズノ別院の建設にも携わる。
増水の結婚証明書によると、同じくコロナ在住のネイティブアメリカンと黒人の血を引く女性ケリー・ウィルソンと1877年12月28日に結婚した。
大工だけでなく、その後は農家や漁師、魚屋のオーナー、通訳などの仕事をし、日本語と英語のほか数カ国語を話したという。そして66歳で死去しカリフォルニア州コルーサの墓地に埋葬された。

増水国之助の末裔のペニー・ユージーン・ギブソンさん(左)と弟のアロン・ギブソンさん(ペニー・ユージーン・ギブソンさん提供)

その増水の血を引く末裔が今もカリフォルニアに住んでいる。ストックトン在住のペニー・ユージーン・ギブソンさん(54)と弟のサクラメント在住のアロン・ギブソンさん(50)だ。母方の5代先の先祖が増水となる。
「いつも祖母がクニ(増水国之助のこと)のことが書かれた新聞記事をもっていて、自分たちが日本人の血を引いているということを話してくれていました」。そう語るペニーさん。「自分の先祖が日本から来た最初の入植者であったことは歴史の一部でもあり、特別に感じている」と話す。
増水が所持していた日本らしい遺留品などは残されていないが、日本のどこかにいるであろう親戚に興味があるという。「いつか会津若松を訪れてみたい。日本には親戚がいるかもしれない。見つけられたらと思っています」と話してくれた。

アメリカ本土で生まれた最初の日本人の末裔か
先祖に浮かび上がった大藤松五郎

東京在住の白石菜織さん(19)は中学3年生だった2014年、夏休みの自由研究の課題で自身の先祖をたどっていた。祖母の白石恭子さんから聞いた「先祖にアメリカで生まれた人がいる」という話を頼りに、家系図や資料を集め調べ始めると先祖に若松コロニーの一員だったとされる大藤松五郎が浮かび上がってきた。


帰国後、カリフォルニアで学んだワイン醸造法を日本で広めた大藤松五郎とその家族と見られる写真(ARC提供写真)

白石さんの父方の5代前の先祖とされる大藤は1838年、千葉県で生まれた。ワイン醸造の先駆者として知られる人物だ。
69年頃に妻(名前不明)とともに若松コロニーに入植。菜織さんは「祖母から、その祖母の島崎さく(旧姓・大藤さく)は両親がカリフォルニアに入植後に生まれたという話を聞きました」と話す。この話からすると、さくはカリフォルニアで生まれた最初の日本人である可能性がある。(シュネルと日本人の妻じょうの間にできた次女は若松コロニーで生まれ、アメリカ本土で最初に生まれた日系の子どもだが厳密にはハーフ)
羅府新報のインタビューに答えた恭子さんによると「母(並木元枝)から私の祖母がアメリカで生まれたと聞いています。一家はアメリカに一緒に行った何人かの日本人と土地をもらい耕していましたが、土地が合わず失敗して帰ってきたようです。帰国後は山梨に行って果物を作ったと聞いています」と証言する。
日本で宮大工だった大藤は若松コロニーでも大工として働き、コロニー崩壊後は、同じく一員で大工だった増水とコロマホテルの建設などに携わる。
そしてカリフォルニアで果実栽培と酒類醸造を学んだ。(仲田道弘著「日本ワイン誕生考」)
ARCによると、加州サンタローサにある長澤鼎(かなえ)のワイナリー「ファウンテン・グローブ・ワイナリー」でワイン造りを学んだとされる。
76年(明治9年)5月に帰国しその後、現在の新宿御苑にあたる内務省勧業寮の内藤試験場に勤務し、大藤はトマト缶、そして同じく若松コロニーにいた柳沢佐吉は桃缶の試験制作をしていたという。


東京在住の白石菜織さん(右)と父の白石敏男さん。先祖に浮かび上がったのは若松コロニーの一員でワイン醸造の先駆者・大藤松五郎だった(白石菜織さん提供)

77年(明治10年)からは山梨県立葡萄酒醸造所(国産葡萄酒生産の第1号となった西洋式醸造施設)に勤務しワインの醸造に携わる。(西東秋男著「日本食文化人物事典」)
85年(明治18年)にはロンドン万国発明品博覧会で山梨県産の白ワインを出品した。(富田仁編「海を越えた日本人名事典」)
88年(明治21年)には山梨県庁を退職し、90年にこの世を去る。享年52だった。
菜織さんは「少し前まで鎖国していたような日本からおよそ150年前に海外にいった先祖を誇りに思う。自分もいつか松五郎のように海外に視野を向け、志を持ち、人生を歩んでいきたい」と話した。

ビアキャンプ家末裔
若松ファームの未来

その後も若松コロニーの跡地は125年にわたってビアキャンプ家が所有していたが、2010年、この272エーカーの土地は前述のARCに売却され「若松ファーム」と名付けられた。


ビアキャンプ家の末裔のマーサ・デハスさん(右)とジュリー・アキン・バウアーさん(写真=吉田純子)

ビアキャンプ家の4世代目のマーサ・デハスさんによると、彼女の祖父母が亡くなった後、敷地はファミリー内で次の世代へと譲り受けてきたが、広大な敷地を維持するのは困難だったという。
末裔は今も近郊で農園などを経営していており、5世代目のジュリー・アキン・バウアーさんは幼い頃から両親から若松コロニーの話を聞かされていたという。日系移民団の歴史を自分たちのファミリーヒストリーの一部として受け止めており、「小さい頃から彼らのことを聞いていたので、いつか日本にあるおけいさんの記念碑を訪れたいと思っていました」と話す。そして3年前に行く機会に恵まれ、会津若松の歴史に触れた。
マーサさんは「父から日系移民団のことを聞かされました。日本からのグループが敷地に来て、いつもすてきな贈り物をもってきてくれたことやお墓参りにくる人々のことなどを話してくれました」と語る。
マーサさんいわく、彼女が幼い頃は敷地内で牛も飼育しており、おけいの墓はフェンスで囲まれていたという。
ここに1929年に撮られた一枚の写真が残る。日本人の一行が同地を訪れ、ルイス・ビアキャンプと2人の息子とともに撮られた写真だ。手には会津藩(徳川家)の葵紋が描かれたバナーと刀がある。ビアキャンプ家は刀とバナーを大切に保管していたが、その後カリフォルニア州に寄付。ビアキャンプ家は昔のコロニーの写真なども多数保持しており2017年にその多くを加州に寄付したという。


1929年に日本人一行がビアキャンプ家を訪れ、初代ビアキャンプ氏の六男ルイス氏と2人の息子とともに撮られた写真。手には刀が握られ、会津藩(徳川家)の葵紋が描かれたバナーを持っている(ARC提供写真)

日米交流の懸け橋に
受け継がれるおけいの歴史


エルドラド郡の小学4年生が読むおけいの生涯を伝える本「Okei-san: A Girl’s Journey, Japan to California, 1868-1871」(写真=吉田純子)

若松ファームがあるエルドラド郡の小学4年生は読書プログラムの一環で、日本からカリフォルニアに来たおけいの生涯を伝える本「Okei-san: A Girl’s Journey, Japan to California, 1868-1871」を読む。書いたのは地元の作家ジョアン・ボーソッティ氏。
また若松ファームを訪れ若松コロニーについて学ぶ遠足プログラムも実施されており、ARCによると毎年約200人近い生徒がおけいの墓を訪れ若松コロニーの歴史を学んでいるという。
移民団入植から100周年を迎えた1969年には、当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンが若松コロニーの跡地をカリフォルニア州の歴史史跡に指定。敷地の隣にあるゴールド・トレイル小学校は80年から会津若松市立東山小学校と姉妹校提携をしており、図書館には浮世絵をモチーフにした壁画が描かれ、東山小学校の生徒から送られてきた千羽鶴や習字、メッセージが書かれた本などが飾られている。
こうして今に生きる私たちにとって若松コロニーの存在は確実に日米交流の懸け橋になっている。
今年はアメリカ本土に日系移民第1号が入植してから150年を迎え、ARCは6月6日から9日に4日間にわたって150周年記念式典「Wakamatsu Fest 150」を開催する予定だ。
かつて若松コロニーがあった場所の片隅には今、再び茶の木が植えられている。数年後、木が成長し、茶葉を摘めるようになった時、それは150年前に果たせなかった入植者たちの夢が花開く時なのかもしれない。


若松コロニーの跡地は1969年にカリフォルニア州の歴史史跡に指定され、敷地の隣にあるゴールド・トレイル小学校にそのモニュメントがある(写真=吉田純子)

参考文献/協力
仲田道弘著「日本ワイン誕生考」(山梨日日新聞社)
西東秋男著「日本食文化人物事典―人物で読む日本食文化史」(筑波書房)
富田仁編「海を越えた日本人名事典」(日外アソシエーツ)
邦字新聞デジタルコレクション・フーヴァー研究所ライブラリー&アーカイブス
California Digital Newspaper Collection
American River Conservancy

若松コロニー150周年:「おけい」報じた最初の記事
English Part 1
English Part 2
English Part 3
The Article That Revealed Okei to the World
WAKAMATSU COLONY: A PROMISE FULFILLED

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3 Comments

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  1. 文中にでてくる柳澤佐吉の子孫です、彼は一旦日本に帰った後、6才の娘を連れて再度渡米し、日米関係悪化にともない晩年娘と日本に帰国しましたのでお墓は東京にあります。近年わかった事などが書かれていて大変興味深く拝読しました。

  2. Ms. susan,
    Did you get a translation version of this article?
    It’ve been more than a year, I hope someone helped you.
    This is an interesting story about Japanese 1st official immigrants.

  3. Could I please get an English translation of this article for my research? Thank you for publishing this important history.

    Susan D Anderson
    Director of Collections, Library, Exhibitions, and Programs
    The California Historical Society