訃報に悲しみの日系社会:店主の山内宏さん、67歳

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小東京こう楽

22日に亡くなった小東京の「こう楽」店主、山内宏さん

 小東京の「こう楽」店主、山内宏さんが22日未明に亡くなった。享年67。2街の和風中華料理店「こう楽」は1976年の開店。86年から山内さんが経営を引き継ぎ、創業当時と変わらぬ庶民の食堂の味を守っている。料理の品揃え、ショーウインドウに飾られたろう細工の料理のサンプル、内装、それに自分を「アナログおじさん」と称する山内さん。どこを取っても昭和の雰囲気がふんだんに漂う、小東京にこの人あり、と言われた店主の突然の訃報に動揺が走っている。

 76年、23歳で学生として東京から渡米した山内さんは、サンタモニカの中華料理店でウェイターとして働きはじめ、10年後に小東京で初めてラーメンの提供を始めた。それがこう楽だった。
 長期闘病を続けていた山内さんだったが、病気であることを知る人はほとんどいなかったので、訃報は日系米国人コミュニティーにショックと悲しみの波紋を広げた。

自転車配達用の保温バックパックを点検する山内さん

 東京都福生市で生まれ、戦後の米軍占領下の日本で育った。この地域には横田米軍基地があり、山内さんの一家は米軍GIに囲まれて暮らしていた。ロサンゼルスに到着後、英語力を向上させるためにUCLAの英語学校に通った。
 こう楽はカレーライスや肉野菜炒めなどの家庭料理メニューの人気に加え、深夜まで営業している魅力に多くの客が引き付けられた。新型コロナウィルスのパンデミックが始まるまで、こう楽は年中無休で午前3時まで開店し、居酒屋やバーで酒を飲んだ後にほっこりと心の休まる食事を取りに来る常連客が絶えなかった。山内さんは、そんな常連が十分に酒気から醒めていないと感じた場合には自らがハンドルをとって家に送り届けることでも知られていた。
 店には、芸能人から警官、有名スポーツ選手まで、幅広い顧客が訪れた。シアトルマリナーズ在籍中のイチロー選手とLAドジャース在籍中の野茂英雄投手が試合後にいつも連れ立って来店していたことを、山内さんはよく話していた。イチロー選手がドジャース球場で本塁打を打った時のことを、「あれは試合前に昼食をこう楽で食べていったのが良かったんだよ」と話していた。
 試合後の食事にこう楽に向かうドジャーファンも多く、彼らのために山内さんは全力で真夜中過ぎまで働いていた。
 小東京店の成功に気を良くしてシャーマンオークス、トーレンス、ネバダ州のプリムに開店した系列店の業績はさまざまだったが、小東京のこう楽は常に多くの顧客を引き寄せる不動の名店である。

リトル東京サービスセンターのビジネスカウンセラーの真理子ロックリッジさんから習ったフェイスブックの投稿すを行う山内さん

 新型コロナウイルスが飲食業界全般に壊滅的な影響を与えたことは否定できない。市と郡が屋内での飲食を禁止したとき、山内さんは持ち帰りと配達にシフトしたが、20人を超える従業員のことを大変に心配していた。何かできることが他にもあると確信し、リトル東京サービスセンターのビジネスカウンセラーであるロックリッジ真理子さんに頼り、それまで利用していなかったソーシャルメディアの世界に足を踏み入れた。初めてフェイスブックやインスタッグラムを立ち上げると、それはあっと言う間に山内さんと人気料理の魅力的な写真で埋め尽くされた。
 最近は現金主義だった同店34年の伝統を打ち破り、クレジットカード払いの受け入れに移行することを許可した。
 山内さんの一徹な姿勢は仲間のビジネスオーナー、中でも特に英語力に制限のある経営者にとっては力強い味方だった。小東京で商売をする人々の擁護者として、山内さんは小東京の個人経営者に悪影響を及ぼす可能性のある不正や問題を見つけたときはいつでも、市当局に行動を要求することをためらわなかった。自分のビジネスだけでなく、すべての人のために大義を尽くす人だった。
 山内さんの思いやりと変化の先導者としての役割は、メトロのリージョナルコネクター建設の初期の頃、日本語を話すコミュニティーのメンバーに何が起こっているのかの説明をするために奔走したときに明らかになった。
 リージョナルコネクターのライトレール地下鉄と小東京/芸術地区駅は2022年に完成する予定。「初運行で一緒に乗るはずだったのに」と家族ぐるみの友人でもある小東京ビジネス協会の岡本(マイク)雅夫会長は嘆き、以下の追悼文を寄せた。【エレン・エンドウ、訳=長井智子】

宏さんを偲んで 岡本雅夫
 マイクさん、ちょっと一緒に来てくれませんか? たしか2009年の夏ごろだったか。当時小東京とダウンタウンをつなぐ地下鉄計画の環境調査の準備作業が始まり、地元コミュニティーへの説明会が始まったころだった。それから約1年、適時コミュニティーへの説明会は断続的に行われたが、日本語を主とする日本人社会への情報伝達には効果が無かった。そんな時に宏さんから声がかかった。「このままではリトルトウキョウは大変な事になってしまう!」。宏さんから日本語の人たちが心配し始めたとの相談があり、急きょ日本語による緊急集会を何度か開いた。その後もできる限り情報共有の機会を持つよう、また宏さんも「なんか分かんなかったらマイクさんに聞いて!」と、伝えてくれており、宏さんは実は英語の内容はほとんど完璧に理解していたにも関わらず、かならず彼らの側で、彼らの心配を共有しながら解決への手助けをしてくださった。紆余曲折を経てその地下鉄工事も最終段階に入ってきた……一緒に記念の第一号車に乗りたかった……と、つくづく思う。

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