ビンセント・オカモト氏死去、ベトナム戦争の英雄

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76歳、元上級裁判所判事

27日に死去したビンセント・オカモト氏

 27日に突然亡くなったビンセント・H・オカモト上級裁判所判事(享年76)の人生は、ベトナムの銃撃戦で鍛えられた勇気、犠牲と名誉の驚くべき物語だった。

 1968年8月24日、オカモト氏は24歳の副大尉として小隊を率いていた。ドウティエン近くで北ベトナム軍の攻撃を受けた時、部下を保護するために、5人を率いて、敵によって防御境界に吹き込まれた隙間をふさいだ。
 援護射撃の必要性に気付き、攻撃で動けなくなった兵隊輸送装甲車に駆けつけ、備え付けの重機関銃で進行してくる敵を迎え撃つために乗り込んだ。
 その武器が操作不能になると、2台目の損傷した装甲車両に走り、今度は0・50口径の機関銃を手にした。この車両は炎上中で、いつでも爆発する危険があった。炎に照らされたオカモト氏は敵の目にさらされ砲火を向けられたが、それに怯むことなくその場にとどまり、弾薬がなくなるまで機関銃を発射し続けた。
 その後、オカモト氏は第3の装甲車両に走り、砲塔から死んだ砲手を取り除き、またも重機関銃を配置し敵軍に砲撃を再開し、弾薬がなくなるまで攻撃を鈍らせなかった。
 敵に対して勇敢にもたった1人の単独攻撃で立ち向かった。手榴弾で武装し、米軍を狙うために配備された敵の重機関銃からわずか10メートルの距離まで這って近づき、手榴弾で敵の武器と銃撃手を壊滅させた。
 オカモト氏は自分も負傷して戻ったにもかかわらず、まず負傷した別の米兵の救護を助け、自分自身のための手当ては拒否して脅威にさらされている前線の防衛を指示するために戻った。その行動は仲間の米兵の多くの命を救った。
 従軍中、オカモト氏は3度負傷し、「Distinguished Service Cross」を含む14の戦闘勲章を受け取った。2007年には、日系米国人としては第二次世界大戦以後で初めて、ジョージア州フォートベニングの陸軍兵士の殿堂に入る栄誉を受けた。2017年に公開されたケン・バーンズ監督のドキュメンタリー「ベトナム戦争」に出演し、若い兵士の時代の経験と思い出を、久しぶりに米飯を食べた話なども交えて伝えた。

ベトナム戦争では、24歳の若さで副大尉として小隊を率いたンセント・オカモト氏

 退役軍人の集会で、オカモト氏はしばしば、「真の英雄は、富と特権を持たない労働者階級の家に生まれ、兵役しか道がないため従軍して命を落とした若い兵士たちだ」と話していた。
 オカモト氏は、ベトナム戦争時代の日系米国人兵士の物語を基にした小説「Wolfhound Samurai」と、名誉勲章を受賞したハーシー・ミヤムラとジョー・アネロの友情を描いた「Forged in Fire」の2冊の著書を残している。
 日系米国人記念裁判所同盟のケン・ハヤシ会長は、日米文化会館(JACCC)の敷地内に建つ日系米国人退役軍人慰霊碑の原動力はオカモト氏だったと語る。その黒い花崗岩の壁碑ができたことが、戦闘で亡くなった日系人をたたえる現在の日系米国人戦争記念裁判所の始まりだった。
 「ビンスは政治家、ビジネスマン、コミュニティーのリーダーたちにアプローチして協力を得ようとしたが、誰も記念碑に賛同しようとしなかった。長く続いた人気のない戦争についての論争が残っていたことが、関わりたくないという障害になっていた。ほぼ5年間、拒絶を受けながらもビンスは忍耐を持ち続けた。最後に、当時JACCCの会長だったミン・トウナイ氏が賛同し、ベトナム戦争戦没者者を慰霊する場所ができた。日系米国人ベトナム戦争戦没者慰霊碑は1995年11月11日に完成した」とハヤシ会長は述べた。「日系人コミュニティーと米国は感動的なリーダーとロールモデルを失った。彼は親愛なる友人であり、私は彼を心から恋しく思う」
 小東京に完成した慰霊碑を前にオカモト氏は述べた。
 「私たちに割り当てられた明日には限りがある。ベトナム戦争の退役軍人に、私たちに残された明日を生かしていきましょうと言いたい。毎日を味わい、ベトナム戦争の怒りと苦しみが私たちの生活を害さないようにしよう。退役軍人として、私は皆さんがこの場所に来て、平和を感じることができることを願い、癒やしのプロセスが始まることを願っている。この記念碑があなたに、人生とはいかに貴重な贈り物であるかを思い出させることを願っている。家族をここに連れてきて、家族があなたに与える愛と支援の気持ちを受け入れることができるように願っている」
 オカモト氏の突然の訃報が広まると友人や仲間の退役軍人が弔文を寄せた。
 「理性的、論理的、雄弁でユーモアに富んだ彼の声がもう聞けないとは」と、デビッド・ミヨシさんは述べた。
 ミア・フランシス・ヤマモトさんは、フェイスブックに投稿し、「50年を失った」と書いた。2人は共にベトナムで戦い、戦後は同じロースクールに通っていた。「彼は私が今まで知った中で最高の、最も魂のこもった人だった。すでに彼が恋しい。私の良き弟、どうか安らかに眠ってください」
 オカモト氏は1943年11月22日にアリゾナ州ポストンの収容所で、日本からの移民家庭の10番目の子、7番目の男子として生まれた。6人の兄はすべて米軍に志願した。特に最年長の2人の兄は、第二次世界大戦中の第442連隊戦闘団の隊員で、ヨーロッパで戦かった。別の兄弟は海兵隊に志願し、朝鮮戦争で戦った。
 3年間の従軍勤務の後、オカモト氏は陸軍を隊長の地位で退役し、USCのロースクールに通い、5年間ロサンゼルス郡副地区検事を務めた。
 1970年代、副地区弁護士として、オカモト氏は日系米国人弁護士協会の創設者の1人だった。オカモト氏はまた、ガーデナ市議会に選出され、カリフォルニア退役軍人委員会の理事を務めた。
 2002年、オカモト氏はグレイ・デービス州知事からロサンゼルス郡高等法院判事に指名された。彼自身のメンターやロールモデル、友人など日系米国人の法務コミュニティーの人々の励ましを受けて、判事登用への申請を提出したという。
 2018年、オカモト氏は二世週祭のグランドマーシャルに選出された。
 彼の最後の公の発言は、新型コロナウイルスのパンデミックの中で今年も開催された、JACCCにおけるメモリアルデーの追悼に関するものだった。
 ハヤシ氏は、外出制限のある中での開催のため、判事に配慮してビデオを制作したと説明した。そして、オカモト氏の娘のクリスティンさんが、戦闘で愛する人を失った家族に慰めを与えるオカモト氏の言葉を読んだという。
 「それぞれの名前の横に書かれていないのは、母親、父親、家族の悲しみ、そして残された愛する人たちの傷ついた心であることを認識してください」とオカモト氏は書いている。「慰霊碑は、私たちが息子たちを思い出し、尊敬し、彼らの喪失の痛みを分かち合うことを、死んだ人々の両親に伝える役割を果たしています」
 オカモト氏には残された生存者として他に、妻のミッツィさんと息子のダービーさんがいる。【訳=長井智子】

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