「応援していただきありがとう」:ドジャースの監督の母心

0

沖縄出身の栄子ロバーツさん

2015年の監督就任記者会見で、デーブさん(右)を祝福する母栄子さん(中央)と父ウェイモンさん(左)

2018年にドジャー球場で開かれたジャパン・ナイトで始球式を務める栄子さん

 ドジャース、ワールドシリーズ優勝! 1988年以来、32年ぶりにチームを優勝に導いたデーブ・ロバーツ監督の母親栄子さんが、日本出身初の大リーグ監督となったデーブさんの生い立ちから、大リーグを目指して野球に打ち込み、少年時代からの夢をかなえた愛息の人一倍の努力を振り返る。そして「ドジャースの監督の母として、温かい応援をいただいた全てのファンの皆さまに感謝します。息子をよろしくお願いします」と、母心で訴える。【永田 潤】

 栄子さんは、沖縄県那覇市松川出身。海兵隊員として米軍基地に勤務していたテキサス州ヒューストン出身の夫ウェイモン・ロバーツさんと友人の紹介で知り合った。深く交際し結婚を両親に相談したところ、2人の若さと相手がアメリカ人だったため強い反対に遭った。またウェイモンさんが従軍していたため、アメリカ移住も案じた。
 1971年に結ばれたものの両親の心は依然、穏やかではなかった。そのため、結婚式は基地内の教会に友人4人を招いて、ささやかに挙げた。 ウェイモンさんは日本語を勉強していたため、あいさつなどの簡単な会話ができ、両親とは片言の日本語と身振り、手振りで意思の疎通を図ったが、心を通わすまでには至らなかった。そんな中、両親の気持ちを一変させる大きな出来事が、1972年5月31日に起きる。

始球式用のボールを持ち、ポーズを取る栄子さんと(左)とデーブさんの長女エミさん

デーブさんの誕生だ。初孫を抱いて大喜びした両親はウェイモンさんに心を開き、結婚をようやく認めた。父とウェイモンさんの共通点は酒好き。父はビールを片手に「こいつは本当にいい奴だ」と、べた褒め。ウェイモンさんの性格の良さを知り、世間には「最高の義理息子です」などと紹介し、自慢の種だった。
 有頂天の父は親戚と友人を招いた誕生祝いを自宅で開き「うちの長女の婿さんです」と、笑顔で紹介。栄子さんはこのとき、初めて結婚が許されたと実感したという。クライマックスは、お決まりの沖縄伝統のカチャーシー。全員で乱舞し、デーブさんの誕生を祝福した。
 長男誕生の幸せに包まれたロバーツ家。このとき、デーブさんが将来、大リーガーになってワールドシリーズで優勝し、現役引退後は監督となって再びチャンピオンリングを手にするとは…。「誰も思わなかった」(栄子さん)

初渡米し全米の基地を転々
日本人妻と交友「楽しかった」
栄子さん

 栄子さんは、ウェイモンさんの転勤で73年に日本を離れ、カリフォルニア州に移住した。人生初の海外生活について「兵隊時代は、主人と私は若かったので楽しかった。3、4年経てば、転勤を命じられるので、次のステーションはどこかと、楽しみにしていた」。だが、ノースカロライナにいたとき、ホームシックになった。ウェイモンさんはすぐに、沖縄転勤をリクエストし、再び沖縄で1年間暮らした。愛妻家の支えで「頑張った」と、ホームシックを克服。6歳だったデーブさんは、日本での生活をよく覚えている。

ジャパンナイトで国家を聴くともに背番号30の栄子さん(右端)とデーブさん(左隣)。大型スクリーンには、栄子さんが映し出されている

 その後は、全米各地の基地を転々とした。基地内の生活は、関東や九州、沖縄などの全国の米軍基地で生活経験がある親日家族が多くおり、また日本人妻とは特に仲良くしていたため、栄子さんは日本が恋しくなることは、もはやなかった。日本語での会話は、やはり良く弾み心地よく、日本人妻のコミュニティーにどっぷりと漬かった。「本当にみんなに良くしてもらい助けられた。仲良しのみんなのおかげで、楽しく過ごすことができた」。だが、「日本語ばかり話していたので、英語はさっぱり上手くならなかった」と笑う。
 基地周辺のスーパーマーケットでは、日本の食材が手に入り、食卓には栄子さんが愛情を込めて作ったみぞ汁やカレーライス、トンカツ、ラーメン、焼き飯などが並んだ。和食好きのデーブさんは、おふくろの味をよく覚えている。
 ウェイモンさんは、オレンジ郡エルトロで、30年間の勤めを終え退役した。デーブさんは、サンディエゴ郡オーシャンサイドで長く育った。

口癖は「絶対、プロになる」
夢を実現させたデーブさん

 デーブさんが野球を始めたのは5歳の時。ウェイモンさんから習ったその頃から「絶対、プロ野球選手になる」と口癖のように言っていたという。勝ち気で、小柄のハンディを人一倍の練習量で跳ね返した。

始球式の大役を終え笑顔の栄子さん(左)と捕手役を務めたデーブさん

 高校に入るまでは、野球とバスケットボール、アメリカンフットボールに励み、高校では大リーグを目指し野球一本に絞った。幾多の大学から誘われたが、11年のときに足のけがに見舞われ試合から遠ざかると、大学からの勧誘の手紙はパタリと止み、特待生としての進学の道は閉ざされた。
 デーブさんが目指していたのは、強豪UCLA。野球部が強くて大リーグのスカウトの目を引く大きな大学に進むことをかねてから志望していた。「やると決めたら一生懸命、必ずやり遂げる芯が強い子」(栄子さん)の通り、けがに目げず優秀だった学業にさらに励み、UCLA入学の望みをかなえた。
 野球部に入部し頭角を現し、名コーチのアラン・アダムスの目に止まった。すでに野球部枠の奨学金は埋まっていたが、活躍が認められ学費免除となった。
 デーブさんは、アメリカ人の父からアメリカ式、日本人の母からは日本式の教育を受け、日米双方の文化、習慣を身に付けた。ただ「バイリンガルとして育てることができなかった。あの時もっと教えればよかった。後悔している」と、栄子さんは、ため息をつく。
 「日本語を教えようとしたが、2人の子供(デーブさんと妹のマリサさん)を育てることが精一杯」でまた、アメリカ生活に順応するために自身も英語を覚えなければならず、子供との会話はどうしても英語になったという。だが、できる限り日本語で話し掛けたため、デーブさんは話すことは不得手だが、聞いて理解することができ、今でも日本語で話し掛けると英語で返すという。
 93年にクリーブランド・インディアンズからドラフト(47巡目指名)されたが断った。そして文武両道を貫き卒業した翌94年、デトロイト・タイガースから28巡目で指名され、迷うことなく入団を決断。子供の頃からずっと抱いていた夢をついに実現させた。栄子さんは「家族はうれしくて飛び上がって喜んだ。夢は一生懸命頑張り続ければ必ずかなんだ」と、実感した瞬間だった。

転機はドジャース移籍
生まれ故郷沖縄で話題に

ドジャースの現役時代のデーブさん(写真=マイケル・カルロス)

年にクリーブランド・インディアンズへ移籍し、翌99年に大リーグ昇格を果たした。だが、デーブさんとよく似たプレースタイルの一番打者で中堅手ケニー・ロフトンが全盛期だったため、追い越すことはできず控えに甘んじた。生まれ故郷の沖縄では大リーガー、デーブ・ロバーツは無名で、親戚すら知る人は少なかったという。
 そこに転機が訪れる。2002年にドジャースへ移籍し、中堅のレギュラーの座を勝ち取った。沖縄では地元のテレビや新聞が、沖縄出身と大きく伝え、島全体に知れ渡った。栄子さんの父親は、ドジャースの帽子を買って被り「大リーグで活躍しているデーブ・ロバーツは私の孫だ」と、自慢していたという。
 「毎日、息子がプレーする試合が見られる。親として最高の幸せだった」。試合観戦のため、オーシャンサイドの自宅からLAに遠路、交通渋滞にも負けず幾度も足を運んだ。
 友人からは応援のメッセージが届き、フィールドを縦横無尽に駆け回り、スタンドを沸かせる息子の勇姿に胸を熱くし、「頑張ったからこそ、夢がかなった。口では言い表せないほどのうれしさだった」と、至福を味わった。
 その半面、チームが負けたり、デーブさんがスランプに陥った時、さらにけがをした時は胸を痛めた。ハムストリングを痛めたときは、長期の戦線離脱を余儀なくされ、「一日でも早く治るように」と、願うことしかできなかった。

同僚の野茂、石井を激励
栄子さん「日本人の誇り」

 ドジャースでは野茂英雄、石井一久の両投手とチームメートなり「2人はかわいいし、息子を助けてくれるピッチャーなので頼もしかった。同じ日本人として誇りに思い、活躍してアメリカ人を喜ばせてすごいと思った」と、感心するばかりだったという。

レッドソックスでワールドシリーズ優勝に貢献し、トロフィーを掲げるデーブさん

 野茂と石井には、おにぎりやローストビーフを差し入れた。2人の印象は「口数が少なく、おとなしかった」。野茂選手は「頑張ってね」と励ますと、「はい」とだけ答えるに過ぎなかったが「石井さんはユーモアがあり、よく笑って愛嬌(あいきょう)があった」。2人が好投したときは「よく投げたね」とたたえると、2人は「ありがとうございます」と答え、試合後に勝利の喜びを分かち合った。
 石井が日本のプロ野球の楽天のゼネラルマネジャーになったときは驚き、来季は楽天の監督に就任することに一層の期待を寄せる。栄子さんが応援する日米の球団はもちろんドジャースと楽天。「ワールドシリーズと日本シリーズで勝ってほしい」と、同年優勝を願う。来季の応援は、よりいっそう熱が入りそうだ。

俊足買われボストンへ
球史に名を刻む盗塁
ワールドシリーズ優勝に貢献

 デーブさんは04年、ドジャースからシーズン中のトレード可能な期限の直前にレッドソックスに移った。チームはそのころ、数年にわたり同じ東地区の宿敵ヤンキースと、し烈な優勝争いを演じていた。同年は地区2位のワイルドカードでプレーオフに進出。ロバーツ一家は、ボストンに乗り込んだ。
 ヤンキースとのア・リーグ優勝決定戦では、3連敗し追い込まれた。背水の陣で望んだ第4戦は接戦を繰り広げ、1点リードを許して迎えた九回裏。先頭打者が出塁すると、監督がすかさずベンチから出て代走を告げた。あの男しかない。「デーブ・ロバーツ」。俊足を買われて移籍し、出番を待っていたデーブさんの見せ場が、ついにやってきた。
 栄子さんが「ひやひや」しながら見守った初球、二塁盗塁を試み「あ、セーフになって」と叫ぶ。母とファンの願いは届き成功。安打で生還し、同点に追い付き、一機にシリーズの流れを引き寄せ、押せ押せムードの延長戦を制した。土壇場の3連敗から4連勝し、ワールドシリーズに進んだ。
 ワールドシリーズでレッドソックスは1918年以来、86年ぶりに優勝を飾った。リーグ優勝決定戦は3連敗の絶体絶命の危機に陥ったが、デーブさんの好走がチームを救い、ワールドシリーズ制覇につながった。球史に残る名場面の目撃者となった栄子さんは「レッドソックスに呼ばれて、いいプレーをしてボストンのファンに喜んでもらった。ワールドシリーズ優勝の役に立てて、うれしくて涙が止まらなかった」

夢だった監督に就任
史上初の日本出身者

 翌05年、デーブさんは地元サンディエゴ・パドレスに移った。栄子さん宅から本拠地球場まで車でわずか45分。「毎試合、絶対行かなきゃ」と、全81試合のうちのほとんどをウェイモンさんと応援に行った。

ドジャース監督の就任記者会見で、球団オーナーの1人のマジック・ジョンソン氏(左から2人目)からユニホームを着せてもらい笑顔のロバーツ氏(右隣)

 その後ジャイアンツに在籍。08年の登録を最後に引退を決意し、電話で知らされた時は、やはりつらかったが「息子の歩く道は、息子が選ぶこと。息子が決めたことは何でも信じていた」。引退する息子に「ありがとう。お母さんはうれしい。ご苦労さまでした」とねぎらった。
 引退後は、後進を指導する道を決めパドレスのコーチに就任。栄子さんは「野球好きだから選んだんだ」と納得し「あんただったらできる。ガンバリ」と背を押した。
 だが、指導者として第二の野球人生の第一歩を踏み出した矢先に不幸が襲った。2010年の春季トーレーニングキャンプで、チーム全員が身体検査を受け、デーブさんに異常が見つかった。精密検査を行った結果、血液がんの「ホジキンリンパ腫」と診断された。「目の前が真っ暗になった。まさか。何でうちの子が」と耳を疑った。。

監督就任会見で、記者の質問に笑顔で答えるデーブさん

 両親の心配とは裏腹に、ポジティブな性格のデーブさんは、冷静に現実を見つめ病魔と闘った。幸いなことに病状は重くはなく早期発見も手伝って、回復は早く完治し復帰を果たした。「本当にラッキーだった。神様に何度も感謝した」
 そして、16年についにドジャースの監督に就任。ドジャースは、大リーグ初の黒人選手として人種の壁を破り伝説となったジャッキー・ロビンソンの獲得をはじめ、中南米を中心に日本やアジアなど幾多の国々から優秀な選手をスカウトするダイバーシティーを誇る。
 デーブさんも球団史に名を刻んだ監督の1人だ。それまでの歴代監督31人は全て白人だった。デーブさんが初の黒人監督となり「夢だった仕事に就くことができた」と喜んだ。また、大リーグ史上初の日本出身監督として晴れて迎え入れられた。
 監督就任の記者会見に参加した栄子さんは「素晴らしい一日だった。うれしくて、夢を見ているようだった」と、この上ない喜びを味わった。

重責の大リーグ監督
複雑な母心を吐露

 現役時代と違い、監督になれば、応援の仕方に違いが出てきたという栄子さん。選手の時は打席に立ったり、出塁すると、ハラハラ、ドキドキの連続だった。安打、凡打に一喜一憂した。これは、デーブさん個人の応援に特に熱を入れていたからだ。

デーブさんの家族。右端2人目から妻の妻トリシアさん、長男のコールさん、栄子さん、長女のエミさん

 一方、監督に就任してからは、敗戦の責任はデーブさんが追うことを痛感し、チームの勝利をより意識するようになった。
 チームが勝つと、もてはやされるが、負けると手の平を返すように罵声を浴びることもあり「ファンの声は、うれしくてまた、厳しいので心配になる」と、複雑な母心を吐露。チームが低迷すると解雇もあり「親として覚悟している。勝ち負けがつくスポーツはそういうもの。気にしていると、やってられない。野球の勝敗は、人生そのもの。いい時もあれば、悪い時もある」と、言い聞かせている。
 デーブさんに「監督の仕事はストレスになるんじゃないの?」と、思いやったところ、思わぬ答えが返ってきた。「そのストレスは、野球の一部で、いいストレスを感じている。だから心配しないでね」と、安心させられた。
 デーブさんは就任以来毎年、チームを西地区優勝に導いている。16年には手堅い采配が高く評価され、就任1年目にして最優秀監督賞に輝いた。17年と18年にワールドシリーズに進んだが、いずれも最終第7戦で敗れ涙を飲んだ。デーブさんには「悔しがる気持ちは、お母さんもよく分かる。来年があるから、また頑張ってね」と慰めた。

デーブさんの監督就任を祝った父親のウェイモンさん(右)とニューカムさん。ニューカムさんは、サイ・ヤング賞の初代受賞者で、日本の中日ドラゴンズでは打者としてプレーした

 栄子さんは、ワールドシリーズで2度敗れた悔しさを胸に「今年こそは」と、応援に意気込んだ。だが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、開幕は大幅に遅れた上に、試合数も大幅に減った。無観客試合が採用されたため、球場には応援に行けず残念だったが毎試合、自宅や友人宅でテレビを見て声援を送った。
 ドジャースはデーブさんの監督就任以来、5年連続で地区優勝を果たし、ポストシーズンでは接戦を勝ち抜き、ワールドシリーズに勝ち進んだ。デーブさんにとっては、2年ぶりの大舞台。栄冠を勝ち取り、コロナ禍でかじ舵取りが困難だったシーズンの有終の美を飾った。
 栄子さんは、17年に他界したウェイモンさんの墓前に手を合わせ「デーブがやったよ。あなたが天国から見守ってくれたおかげで、ドジャースが勝ったよ」と、話しかけた。栄子さんによると、デーブさんは亡き父に「優勝を見せたかった。でも僕の心の中には、ダディーはいつもいる」と、話したという。

「勝たせてやってください」
連覇へ、ファンに求める

 リトルリーグの時からデーブさんの試合をずっと見てきた栄子さん。デーブさんの野球スタイルは、当時から変わらず、リードオフマンの役割の出塁への貪欲さを、どの選手よりも強く持った。単打で出塁しては、俊足を生かして盗塁を着実に決め、後続のクリーンナップに託す。得点を重ねてチームの勝利に貢献した。栄子さんは「つらいこともあったと思うけど、選手そしてコーチ、監督になってもギブアップしないでよく頑張ってくれた」と、褒め称たたえる。

監督就任記者の会見後、日本のメディアに囲まれインタビューを受け、質問に答える栄子さん

 栄子さんは6年前にパーキンソン病を発症した。デーブさんは、栄子さん宅から車で20分ほどの近くで暮らす。老いた母の健康を気づかい、週に2、3度電話をかけ、オフシーズンは頻繁に会いにくる孝行息子だ。栄子さんの病状は、服薬とウォーキングの運動で改善し、健康な生活を送っており「家族と友達が助けてくれるので、とても元気になった」と喜ぶ。
 栄子さんは自身の半生を振り返り「まさかアメリカ人と付き合って結婚し、アメリカに移り住むとは夢にも思わなかった。そして、息子が大リーガーになり、引退後はコーチそしてドジャースの監督になってワールドシリーズで優勝するとは…。人生ってどうなるのか分からないね」。ウェイモンさんには「今でもそばにいる気がするよ。私は家族と幸せに暮らしてるので心配しないで。いい人生を過ごすことができるのは、あなたのおかげ」
 「自分の子供は、いくつになっても子供で、心配する。ドジャースが優勝できたのは、ファンのみなさんが良くしてくれたおかげ。コロナで大変ですが、今年も勝たせてやってください。ドジャースの監督の母からお願いします」

Share.

Leave A Reply