あれから10年

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 その日のことは今も鮮明によみがえる。
 日本に到着してほどなく、久しぶりに会った親戚と銀座三越の9階で昼食を終えたばかりの時だった。天井からつるされた照明器具がブーンと左右に揺れはじめ、窓の外を見るとクレーンが大きく揺れていた。揺れが止むのを待って一階へ降り、とりあえず喫茶室に座り込むと、余震のたびに「皆さん、テーブルの下へ」とウエートレスの声。福岡の妹とようやく電話が通じ、地震と津波で東北に甚大な被害が出ていることを知ったのはしばらく後のことだ。私たちと連絡がつかずにアメリカで心配していた子どもたちへは、無事との伝言を彼女に頼んだ。
 やがて日は落ちたが、鉄道はすべて運行停止。近くのホテルはどこも満杯という。建物の片隅で夜を過ごす覚悟をしていると、妹から連絡が入り「めいの入居したばかりのアパートへ」との指示。私たちは帰宅難民となって黙々と歩む大勢の人々の流れに加わって、夜の隅田川を渡った。
 シアトルのわが家で友人たちと集ったのは、そのひと月ほど前のことだ。ワインと駄じゃれを楽しむ仲間たちの一人は、大の飛行機好きで、駐在員としてアメリカにいる間に飛行機の各種ライセンスを取得。退職後はビジネスジェット中継基地事業を仙台空港内に展開して、日米を行き来していた。「次は日本で」と言って別れ、数日前には「近いうちにご一緒しましょう」とのメールが仙台から届いたばかりだった。
 津波で浸水した空港に数百人が取り残されていると聞き、彼もその中にいると信じていた。しかし、地震発生時は自宅で無事だったのにオフィスの被害を心配してその後に空港に向かったらしく、安否不明の日々が続いた後、津波の犠牲となっていたことが判明した。
 被災地を思うと今も胸が痛む。少額ながら仙台で復興支援にあたるボランティアに活動資金の一助として送り続けた寄付は、震災から5年経った時に「もう、これで終わりに」と断りが届いた。それでも、被災地の心の傷はいつまでも癒えることがないだろう。
 シアトルの支援団体ソングス・オブ・ホープは12日、メモリアルコンサートを催す。コロナ禍の今年はYouTubeでの配信だ。【楠瀬明子】

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