日出ずる処の天子

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 今年は、聖徳太子が薨去(こうきょ)して一四〇〇回忌ということらしく、奈良の国立博物館では記念の特別展示がされていました。私は学校で聖徳太子と習いましたが、この名称は没後に神格化された尊称であることから、最近の教科書では厩戸皇子(うまやとのみこ)と併記されているそうです。
 私たちは聖徳太子を旧一万円札の顔として広く認識しています。柔和な表情で、いかにも聡明(そうめい)さを感じました。しかしながら残された絵や像には、到底同じ人物とは思えないものも多いのです。中でも国宝の聖徳太子坐像の顔は、眉をつり上げてにらみをきかせています。説明には「森厳(しんげん)な面持ち」と書かれていましたが、険しい表情の太子も拝観することができました。
 実父が用明天皇という血筋でありながら、自身は天皇になることもなく、法隆寺を作り、冠位十二階を制定し、遣隋使を派遣して大陸の文化や制度を積極的に取り入れ、叔母である推古天皇の摂政として長期政権を支えます。日本で最初に成文化された法典として後々の武家政権にも大きな影響を与えた憲法十七条には、「以和為貴」(和を以て貴しとなす)の文字があります。また「夫事不可独断 必與衆宜論」(事独り断ずるべからず、必ず衆と論ふべし)とも書かれています。和の心を持って独裁者にならず、議論して決めるという今でこそ当たり前な考えで、日出ずる国の形をつくりあげようとしたのかもしれません。
 そして飛鳥時代でも、たびたび伝染病が猛威をふるっていました。太子の父母だけでなく多くの民が疫病で亡くなっても、治療法はなく祈ることしかできなかった時代でした。目に見えない力を信じさせることによる国家統治が必要な時代には、民衆から絶対的な信頼を得る人物が必要でした。それが聖徳太子の人徳であったと感じました。
 実は、1400年後の今でも通じることです。目に見えない恐れや不安があるからこそ、リーダーシップを取る人材が、道徳心のある正しい情報を自信を持って伝えるべきなのです。それを信じて私たちは安心して暮らしていくことができるのです。【朝倉巨瑞】磁針

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