今なぜ、庭園業なのか②
日系庭園業者の歴史
加州立ポリテクニック大 上杉武夫名誉教授
2009年4月25日
20世紀の初頭から第2次大戦が始まる迄の約半世紀は、1世、2世のパ
イオニアにとって血のにじむような生活の連続であった事は周知のところ
でありますが、その中でガーデナーが果たした役割は想像以上に高かっ
た。1922年、連邦最高裁で日本人に帰化権はないと判決され、また外
国人土地法で農場の賃貸が出来なくなるなど厳しい状況下にありながら、
ガーデナーの数が膨れ上がり、1920年頃、日系の10人に1人がガーデ
ナーであったと言われています。
特筆すべきは、1929年に始まった大恐慌の最中、1934年、ロサ
ンゼルス日系人口の3分の1に当る1500人のガーデナーがいた事が記
録されています。これはあらゆる困難に立ち向かったガーデナーの面目を
如実に示すもので、いわゆる「がんばって」という言葉もこの頃に生まれ
たものに違いありません。
以前紹介しました「ガーデナー風雲録」にあります川柳は、この困難な
時代に書かれたものが多く、ガーデナーのみなさんの心の機微にふれた言
葉に胸打たれるのであります。しかし、戦前の1世には、自分の子供に
は、自分と同じ農業者、ガーデナーとなるよりも、教養を身につけ、政治
の風向きに左右されない職につき、他のアメリカ人から侮辱されない人に
なってほしいという悲願がありました。この結果、多くの子供たちはその
期待にこたえて苦労を重ね、社会的地位の高い職につくようになりました
が、一方、ガーデナーの後継者を激減させる原因にもなったようでありま
す。
戦中、太平洋戦争の勃発で、多くの日系人が強制収容所に収容され、そ
の隔離という精神的な屈辱は想像を絶するものであったに違いない。戦
後、収容所からガーデナーを職とする人たちがロサンゼルスに帰ってきま
した。1952年日本人の帰化権が承認され、ベビーブームの人口爆発に
よって多くの移民がアメリカに渡ってきました。最初、農業に従事してい
た人たちも次第にガーデナーに転向し、ガーデナー人口増加の一途をたど
る事になったのであります。
ガーデナー組合の活動も各地で盛んとなり、1955年には12の組合か
らなる南加庭園業連盟が誕生することになりました。1956年には機関
紙、ガーデナーの友が再発行され、ここに、ガーデナーの最盛期を迎える
事となりました。1960年頃には、8000人のガーデナー人口を擁す
るまで発展したと言われています。
連盟の目的は会員の健康、福祉、教育、親睦などにおかれ、コアップや
婦人会、ボランティアなどさまざまな活動を通して、コミュニティサービ
スを続けてきていると聞いております。
また、1960年代は変革の年でもありました。アメリカでは、ケネデ
ィの就任と暗殺、学生運動、ベトナム反戦運動、公民権運動等、政治及び
社会の混乱が続きました。一方、日本では高度経済成長を遂げ、オリンピ
ックや万博の開催により、戦後の飛躍的な発展を世界に示した時期であり
ました。国民が豊かになった日本からは移住希望者が減少し始め、外国に
移住するメリットがなくなり、1980年代から1990年代には減少の
一途をたどったようであります。さらに、2000年から現在に至るま
で、日本からの移住者が少なくなり、その結果、ガーデナーの高齢化そし
て後継者の激減という事態に直面し、今や庭園技術の継承が危うくなって
きております。庭園業の新たな発展が大いに期待されるところであります。
(つづく)
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