冷静に正しく恐れる
薬局やコンビニをうろうろしてみたけど、やっぱり見つからない。花粉症でもないしストックしようと考えたことはなかった。売っていないから使っていないけれど、それでも大丈夫のようだ。 新型コロナウイルスが話題になりはじめた頃、予防には「マスク」「手洗い」「消毒」の3つが大切と報道されていた。
薬局やコンビニをうろうろしてみたけど、やっぱり見つからない。花粉症でもないしストックしようと考えたことはなかった。売っていないから使っていないけれど、それでも大丈夫のようだ。 新型コロナウイルスが話題になりはじめた頃、予防には「マスク」「手洗い」「消毒」の3つが大切と報道されていた。
この日にコラムを書くことは、偶然とはいえ何か意味があるのだと思う。 転職活動をする中で過去に書いてきたものを読みあさっていたら、「10年後の自分に宛てた手紙」が出てきた。当時大学生の私はハワイの日系2世や新宿のニューカマーたちへのインタビュー調査に奔走していて、未来の自分にこう提案している。
英語のレジュメっていいなと思う。「こういうミッションを持って、こんなゴールを目指して仕事をしています」と、学歴と職歴とともにどういう人間なのか冒頭から伝えることができる。社会的属性で自分をラベリングする必要はない。 あるアメリカ企業の日本オフィスに願書を出すとき、英語のものだけでなく日本語の履歴書も出すように指示された。
羅府新報で取材をしていた頃、県人会のイベントではいつも高齢のメンバーがお祝いされていた。「生涯現役」「80歳になってはじめて高齢者の仲間入り」と明るくポジティブな言葉が懐かしい。 日系社会と同じく高齢化が急速に進む日本。こちらの雰囲気は全く違う。
無駄な抵抗か、いや、そんなことはない、と迷いながらもスタバの店員さんに言ってみた。「フタとストローはナシでいいです。そのまま口をつけて飲みます」 視界に入った店内のゴミ箱にはプラスチックのカップ、フタ、ストローが山積みだった。意欲が削がれそうになったけれど、何かしたいと思いはじめていた。
「8月ジャーナリズム」と揶揄されることもあるけれど、せめて夏だけは新聞やテレビを通して過去の戦争について思いを馳せて、何気ない日常が奪われてしまうことがどういうことか想像したい。 そんな今年の夏、ある友人のことが気にかかっている。彼はこの時期毎年特集される広島の原爆投下にまつわる記事を読むことができない。
「コラム一丁あがり!」と、心の中で呟く。もし書き起こしていたら素敵なコラムになりそう。そんなスピーチを毎週ヨガのクラスで聞いている。 彼女はいつも何気ない身近な話題から始める。息子がスマホを壊した話、テキストを連打してくる悩み多き友人、行きつけの銭湯で見つけたツバメの巣…。
私にとって心優しい笑顔の絶えない同級生は、会社では全く違う顔を見せているようだ。怖くて怯える後輩たちもいて何度も懲罰委員会に呼び出されているという。 いわゆる「ブラック上司」だが本人に自覚はない。パワハラという指摘には不服そうに自らを弁護する。「必要な指導」「クライアントのため」「自分もそう指導されてきた」と。
朝はその住人の声で目が覚める。会えばおはよう、仕事帰りはただいまとあいさつを交わす。元気? 何を食べているの? なんて話しかけることも。 緑地帯のあるアパートの踊り場。ウミネコが卵を産み毎日温めている。去年はここで2羽の巣立ちを見届けた。年に数カ月、東京のど真ん中で、野生の動物を観察できるなんてラッキーだ。
まるで2度目の正月でも来たかのようだ。メディアもどこもかしこもお祭り騒ぎ。街を見回すと「平成最後のー」と商魂たくましい看板があちこちに。 新たな元号「令和」になったけれど、身の回りも気持ちも何ひとつ変わらない。内心うんざりしながらも、この報道には自然と耳を傾けたくなる–「女性天皇は誕生するのか」。
「ふるさと」ってどんなものだろう。私にとっては永遠に想像するもの。 生まれ育った場所に思い入れはない。小中高のクラスメートで今でも連絡をとる人はひとりもいない。社会人になったら転勤族で地方都市を転々。その後は日本を離れた。 それでも、ひとつはっきりと言えることがある。