短農クラブ30周年:記念誌「草ノ根」を発行

0

セロリのプランティングをする短農生

「日本農業の近代化」「国際的視野を持った人材の育成」などを目的に、日本政府が1956年から約10年間にわたりアメリカ政府に働きかけ行った「短期農業研修」を経験し、現在加州に在住する元研修生らで構成する「短農クラブ」(遠藤晃一会長、会員20人)はこのほど、創立30周年を記念し、短農の歴史が詰まった記念誌「草ノ根」を発行した。

このほど発行された記念誌「草ノ根」

同研修事業は40年以上前に終了しているため、「短農クラブはいずれ消滅してしまう運命」(遠藤会長)。会員の高齢化も進む中、「ここアメリカに残されたわれわれの子供たちが自分のルーツを探る時が来た時、この記念誌を見て親の『足跡』を学んでほしい」と、現在20人にまで減った会員一同、記念誌の発行を決めた。
「これからも草の根のように、地味に、しかし力強くアメリカの地で生きていきたい」との気持ちを込め、記念誌のタイトルとした。会員の水木一さん、春間益美さん、森田勝視さん、谷口強さん、遠藤会長らを中心に制作された全76ページには、約10年間の研修事業内容、研修生の血のにじむ努力と苦労、短農クラブの活動などが、写真とともに彼らの言葉でつづられている。
1ドル=360円の時代に3年間で100万円を稼げるとあり、「故郷に錦を飾ろう」と、1回生の募集には1000人の定員に対し、1万1000人の大志を抱いた青年が応募。厳しい審査に合格した全国の若者が、加州の農村でセロリやトマト、ピーマン、サヤマメなどを栽培する農場で研修した。
1959年に600人の応募があった北海道から選出された遠藤会長は、「選ばれた人は皆、日本の農業を支え、家計を支え、そして日本を代表する気持ちで夢と希望を持って渡米した。そして、カリフォルニアの暑い太陽の下、ほこりまみれになり働いたあの経験は、私たちの原点であり、誇りである」と振り返る。
短農生らは当時、時給80セントからスタート。場所によって異なるが、平均時給1ドルを稼いだ。この中から、ボーディング代や食費、また政府が立て替えた行きの旅費と、3年後の帰国の際に使用する帰りの旅費分、また現地での無駄遣いを避けるための強制貯金をさせられており、手元に残る小遣いは一週間で15ドル程度だった。しかし、この短農生による貯金のお陰で、当時の日本政府の外貨貯金が大幅に増えたとの話もあるという。

人情と誇り詰まった一冊

一方、農作業は想像以上に苦しかった。一日中腰を曲げての仕事で顔や手が腫れ、夜になると仲間のベッドの中からすすり泣く声が聞こえた。また炎天下での作業で、皆日本人には見えないほど日焼けをし、一緒に働くメキシコ人たちとも、どちらが先に作業を終えるかといった「闘い」もあった。

1960年、二世週で神輿を担いだ短農生。手前右が遠藤会長

厳しい労働条件の下、寝起きをともにした仲間との絆は深まった。ひどいホームシックにかかった仲間を思い、皆で少しずつお金を出し合って日本に送り出したこともあった。また1960年には、ロサンゼルスの姉妹都市である名古屋市から神輿(みこし)が寄贈され、日頃農作業で体を鍛えている短農メンバーに、「二世週祭で担いでくれないか」と依頼があり、80人の短農研修生は威勢良く神輿を担ぎ、日系社会に貢献した。
同研修制度に終止符が打たれたのは65年。このころ、アメリカの不況で失業者が目立ち始め、メキシコ人農業労働者の入米禁止運動が勃発。64年、連邦議会で受け入れ計画延長拒否が可決され、翌年、日本からの研修も打ち切りとなった。それまでの間、同研修に送られた日本の若者は4100人に上る。
遠藤会長は、「短農と聞いて、『農業労務者』と見下す人もいるかもしれない。でも、この厳しい経験から学んだことは人生の宝。たくさんの素晴らしい仲間もできたし、自分の人生の土台になっている」と胸を張る。
「草ノ根」を購入希望者は遠藤会長まで、電話310・836・8019。記念誌は無料だが、寄付を受け付けている。【中村良子】

Share.

Leave A Reply