マッカーシズム旋風吹き荒れる50年代米メディアからは、原爆製造の機密を中国に流したとぬれぎぬを着せられたアメリカ人女性物理学者が6月初め、北京市内の病院で静かに息を引き取った。
 女性の名前はジョアン・ヒントンさん。1921年10月20日シカゴ生まれ、享年89だった。シカゴ大学大学院で物理学を専攻していた21歳の時に原爆開発を目指す「マンハッタン計画」関係者からお声がかかり、同計画に参画。E・ファミリ博士は彼女の直接の上司だった。45年7月16日、原爆実験に成功、21日後の8月6日、アメリカは人類初の原爆を広島に投下した。ヒントンさんは原爆製造はあくまでも抑止力のためと信じていただけに、それが実際に十数万の人類を殺すために使われてしまったことに激怒。祖国・アメリカを捨てて、中国へ向かった。アメリカの土を踏むことは二度となかった。
 ヒントンさんは毛沢東の進める革命に共鳴、大躍進に参加する。延安で知り合ったアメリカ人青年と文字通り「洞窟の中で」結婚式を挙げ、その後は二人で酪農をはじめ、最終的には北京近郊の農場で中国農業の機械化に貢献する。文化大革命当時はこれを正当化する欧米向けの文書の翻訳にも携わっている。
 そのヒルトンさんが08年8月、一度だけ広島を訪れたことがある。原爆投下から63年後の8月6日だった。車椅子のヒントンさんは、今もなお後遺症に苦しむ人と面会し、原爆ドームの前に佇んだ。「It is terrible」と言ったまま絶句したと、当時地元紙は報じている。原爆製造にかかわったことに対する罪悪感から反米となり、それがどうして中国亡命となり、毛沢東崇拝へつながったのか。死ぬまで多くを語ることはなかった。ただ、02年米ラジオとのインタビューでこう述べている。
 「私は20世紀最大の二つの出来事に参加しました。一つは原爆の開発、もう一つは中国革命。人間として生まれて、これ以上のことは望めないわ」
 広島は原爆投下から65年目を迎えようとしている。【高濱 賛】

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