東日本大震災:ロサンゼルスの鵜浦真紗子さん、宮城県気仙沼市で被災

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鵜浦真紗子さんと、夫のテッド・トキオ・タナカさん

 アジア・アメリカン・シンフォニー・アソシエーションや日米婦人会など、ロサンゼルスで活躍する鵜浦真紗子さんは、東日本大震災が発生した3月11日、宮城県気仙沼市で被災した。自衛隊に救助されるまでの約16時間、商店の屋根の上で恐怖と不安と寒さに耐え抜いた。実家の岩手県大船渡市に戻った今、「何も考えられない」という傍ら、現地で救助活動するオランダからの救援隊の通訳をするなど、故郷のためにボランティアをしている。
 
「いつもの地震と違う」
 
 日本人建築家、テッド・トキオ・タナカさんの妻、真紗子さんは、産婦人科医の父と母のもと東京に生まれ、大船渡市で育った。11日は、2年前に亡くなった母親の遺品整理のため、気仙沼市の港にある事務所で午後3時に人と会う約束をしていた。
 叔母の運転で事務所へ向かっていた時、地震が襲った。揺れはハンドルを取られるほどひどく、徐々に激しくなった。2、3分は続いただろうか。目の前の道路がうねっていた。「いつもの地震と違う」。そう思った。
 しかし揺れが収まると、地元の人たちは普段の生活に戻っているようだった。それを見た真紗子さんの叔母は、再び事務所へ車を走らせた。到着すると、「大津波が来るから逃げて!」と従業員の叫び声が聞こえた。同時に津波を警告するサイレンが鳴り響く。道路は渋滞するため、徒歩で逃げるようアナウンスがあったが、地元民は皆車で避難していた。
 真紗子さんらもいったん車で走り出したが、すぐに渋滞にはまってしまったため、車にあったクッションを抱え外に飛び出した。しかし、土地勘のない場所。どこへ逃げていいのか分からない。避難場所は一体どこなのか。
 全員が内陸に向かって走っている中、一人港に向かって走ってくる男性がいた。「どこへ逃げたらいいですか」。真紗子さんはとっさに彼に聞いた。彼は手に持っていた携帯で気仙沼港に大津波が押し寄せてくる映像を見せ、「付いてきて!」と叫んだ。
 後に分かったのは、この22歳の男性は海上保安庁に勤める渡辺さんという人で、この日は非番だった。
 
一気に押し寄せる津波
 
 渡辺さんの誘導で逃げ込んだのは、6階建て鉄筋コンクリートの雑居ビルの裏だった。しかし裏側からそのビルには入れなかったため、横にあった2階建ての建物の外側階段を上り、屋根を目指した。もう少しというところで、ものすごい音とともに津波が一気に押し寄せてきた。津波は、あっという間に真紗子さんの胸元まで押し寄せる。「死んでたまるか!」。全身の力を振り絞り、波の勢いも借りて屋根に上った。
 気がつくと、猫を抱えずぶぬれになった20代の女性も屋根の上に避難していた。津波は容赦なく襲い、4人は隣接していた3階半建てのドラッグストアの屋根へとさらに避難した。港へ目をやると、すべてが津波に飲み込まれていた。何も考えることができなかった。
 日が暮れ、寒さが増す。爆発、火事、がれきの押し寄せる音、そして油の匂い・・・。すべてが怖かった。渡辺さんは一晩中海を見張っていた。3人は、隣の6階建てビルに避難した人たちから投げてもらったシーツにくるまり、体をさすり合った。言葉を口にする人は誰もいない。自衛隊に救助されるまでの16時間、真紗子さんは「お母さん、守ってください」と、2年前に亡くなった母親の名前を心の中で叫んでいた。
 一方、ロサンゼルスで地震のニュースを知った夫タナカさんは、安否の分からない妻を思い、苦痛な時間を過ごしていた。真紗子さんから電話がかかってきたのは夜中3時半。屋根の上からだった。「死んでしまうかもしれないけど、頑張る」。その後、電話は切れてしまった。それから40時間、真紗子さんの安否は分からないままだった。
 
固く握った自衛隊の手
 
 日本時間12日午後5時過ぎ、真紗子さんら4人は自衛隊に救助され、高台の避難所を目指して30分ほど歩いた。その間、真紗子さんは自衛隊員の手をしっかりと握ったままだった。「手を離すのがとても怖かった」という。

鵜浦真紗子さんが被災した宮城県気仙沼市=12日撮影。同市内の犠牲者の数は580人以上、いまだ1400人以上の行方が分からない


 ケガの治療もかね、真紗子さんと叔母、そして猫を連れた女性3人は病院へ向かう。病院へ到着後、真紗子さんは初めて「助かった」と心から思えた。しかし、待合室のテレビから流れる被害の映像を初めて目にし、ショックから失語症の症状が出始めた。
 この震災で、気仙沼市では580人以上が死亡、いまだ1400人以上の行方が分かっていない。
 岩手県大船渡市に住む父親と再会したのは、被災から2日後。86歳の父親は、「生きててよかった、生きててよかった」と何度も叫んだ。真紗子さんは、父親の顔を見た瞬間に全身で疲れを感じるとともに、安堵感も覚えた。
 大船渡市も地震と津波の被害で260人以上の犠牲者を出し、いまだ250人以上の行方が分かっていない。
 真紗子さん一家は、マグニチュード9・6を記録した1960年のチリ地震による津波被害に遭っている。当時、大船渡市では53人の死者を出した。その経験を生かし、現在の自宅は夫のタナカさんがデザインし、2年前に高台に建設。そのお陰で、今回、津波の被害は免れた。
 地震発生から2週間が過ぎても水道設備は整わず、被災地は引き続き厳しい状況が続いている。自身も被災し、不便な生活を強いられているにもかかわらず、真紗子さんはオランダから救助に来た救援隊に自宅前を解放し、通訳を買って出るなど、ボランティア活動を始めた。
 
故郷のために恩返し
 
 自身の苦悩をも顧みずボランティアに務めるその理由を真紗子さんは、「大船渡に父と母がこの50年間お世話になったから」。真紗子さんの父親は、同市で約1万人の赤ちゃんを取り上げた産婦人科医。街の人は皆家族のような存在だという。
 真紗子さんは、「大船渡は私のふるさと。今度は私が、地域のために恩返しをする番」と話す。
 ロサンゼルスへの帰国の予定は未定だが、アジア・アメリカン・シンフォニー・アソシエーションの会長を務める夫タナカさんは、5月28日に日米文化会館で東日本大震災のベネフィットコンサートを計画している。 【中村良子、グエン村中】

 
 
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