震源から200マイルの地で

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 グラリと来たのは昼食後、東京・銀座三越の9階で親戚の者と話をしているときだった。屋内の照明器具も外のクレーンも、いつまでもいつまでも大きく揺れた。
 揺れがおさまり1階に移ってしばらくすると、館内アナウンスが、鉄道はJRをはじめ全線運行停止中であることを報じた。帰る足を失い「帰宅難民」となった私たちに大地震の全容が見えてきたのは、その翌日。滞在先の横浜のアパートに、ようやく帰りついてからのことだ。
 それから先は、既に全世界が知っている通り。津波の猛威、追い打ちをかける火災…。テレビで報道される大震災の様子を、ただ声もなく、胸のつぶれる思いで見つめるばかりだった。やがて、命からがら避難所にたどり着いた人々に過酷な寒さが訪れ、「毛布が足りない」「(暖をとるための)灯油が無い」「食糧が足りない」と報道されると、見ているしかない無力に辛さが増した。出来るのは、被災地への寄付と、自宅の暖房を我慢する位のことだから。
 戦場のような被災地から離れたこの地では14日から、東京電力による「計画停電」が始まった。地域グループごとに1日に3時間、場合によっては2度(6時間)行われる停電の間は、店も電車も交通信号もすべてストップ。残念ながら、不安から食料品やガソリンの買い溜め騒ぎも起きた。それでも大半の人々は、「被災地の人々の苦労に比べたら」と種々の困難を甘受している。
 いまも頻繁に起きる余震に神経はとがり、地震でない時も体が揺れているように感じられる日々。原子力発電所事故への不安は限りなく大きく、ニュースから目が離せない。毎朝、行方不明のままの友人の消息を求めてメールを開ける…。この一週間以上、私も日常と非日常のはざまで生きてきた。
 それでも、嬉しかったことが一つ。震災の起きた日の夜、帰宅難民となった私たちに三越は、店内に温かい居場所を作り、水などの手配までしてくれた。寒い夜に受けた親切は、身に染みた。【楠瀬明子】

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