トーレンスの永野力さん:被災地でボランティア、福島県いわき市へ

0

ボランティア活動をする永野さん(右)と山口県宇部市の市職員(写真=永野さん提供)


 東日本大震災以来、多くの人が「何ができるか」を問い、それぞれができることをしてきた。トーレンス在住の永野力さんは、4月9日付けの羅府新報に掲載された、避難所に出向き被災者に手料理を振る舞った日系4世クレイグ・岩本さんの記事を読み、被災地でのボランティアを決意した。永野さんにその経験を語ってもらった。
 
上野から勿来まで
 
 福島県でのボランティアに向かったきっかけは、羅府新報の記事を読んだことであった。ロサンゼルス出身で日系4世のクレイグ・岩本氏が、東京から食料をいわき市勿来(なこそ)に持参し、食事を避難所の方々に振舞ったという内容である。ロサンゼルス出身の同胞の活動を知り、自分も何かをしたいという強い願望が沸き起こった。
 4月下旬にはたまたま仕事で東京に行く予定であったため、自ら被災地のボランティア活動への参加が可能か検討し始めた。ウェブで検索したところ、いわき市勿来には災害ボランティアセンターという団体があり、がれきの処理、清掃などを日々行っていることを知った。電話確認をとると、元気の良い女性から「物資や資金は必要ないので、朝9時現地に集まってください」との応えがあった。東京からの日帰りボランティアは可能であると分かり、同地に行くことを決心した。
 上野駅から常磐線で北上するに従い、どのような光景になるのか外を眺めていた。沿線周辺は平穏そのものであった。犬を散歩する地元住民、工作機で田植えをする農家など、美しい田園風景が広がる。電車の中では、ジャージ姿の地元高校生の集団が乗っていて、どこか合宿に行くような伸び伸びとした雰囲気であった。「本当に被災地に向かっているのだろうか」と、妙な不安が募ってきた。
 3時間かけてようやく勿来駅に到着。映像で見てきたような「廃墟と化した街」はなく、ゴミ一つない、整然とした駅であった。きれいなコンビニまで横にある。そこで見かけたオレンジ色の作業服を着た3人組がボランティア志願者であると直感し、一緒にタクシーに便乗し、目的地へと向かった。
 
災害ボランティアセンター
 
 「勿来地区災害ボランティアセンター」の広い空き地へ到着する。プレハブ校舎がいくつかある静かな住宅街である。到着が早かったため、その後、自動車で続々とボランティアが現れる。皆、同じようにヘルメットとマスク、軍手に長靴で防備している。
 場所は、福島第一原発からほぼ60キロ南に位置する。距離としては、ちょうどトーレンスとアーバインの間くらいで、かなり近い。放射能レベルは平常の5倍程度と言われた。やはり気がかりである。しかし、ボランティア職員はマスクもヘルメットも付けず働いている。20代から30代の若い男女が中心で、表情と声はとても明るく、その場を盛り上げてくれる。まるで災害と放射能におびえて暗くなることを断固として拒否し、希望を持って困難に立ち向かおうと、ボランティア全員に対して鼓舞しているかのようであった。
 200人程度のボランティアが集結し、受付に名前を記入後、ボランテイア職員から説明を受ける。小グループに分けられ、午前と午後、それぞれの任務が与えられた。私の所属のグループは、海岸近くで被災した民家の壊れた瓦(かわら)を外し、奇麗にすることであった。マイクロバスに乗り、午前の目的地へ向かった。
 
瓦の撤去作業
 
 周囲を見ると、壊れた屋根や地震で傾いた家、ゴミで散らかった川岸などが見えてくる。緊張が高まる。

被害に遭った民家の瓦の撤去作業に励むボランティアたち(写真=永野さん提供)


 最初の目的地に着いた。2階建ての家で、玄関が傾いている。1階は完全に津波が通った形跡がある。この民家の持ち主である田中さん(仮名、推定70歳代)と話した。
 地震が起きた際、家には田中さんとその高校生のお孫さんしか居なかった。津波が見えてくると、すぐに2階へ避難した。高さ2メートルくらいしかなかった第一波にはかろうじて飲み込まれなかった。第一波が過ぎ去り、別の高台の避難場所に孫と一緒に逃げた。
 その後の第二波では、家が完全に飲み込まれてしまったという。九死に一生を得たのである。田中さんは、「命だけは助かって良かった」と話していたが、後片付けに奔走する田中さんの姿には、悲壮感が漂っている。一人で木材を担ぎ、壊れた家の中を淡々と掃除する。家族は、避難所の生活をしているのだ。私たちボランティアは、屋根から下ろされた瓦をリレー式で下まで運び、下に並べた。3時間ほどで、1階および2階にあった瓦はすべて撤去された。
 
ボランティアの素顔
 
 緑色のジャンパーを着るボランティアが多いことに気づいた。聞いてみると、山口県宇部市の市職員であった。瀬戸内海に面した山口県宇部市と福島県いわき市とは、経済的および文化的な交流があると聞いた。今回の災害により、宇部市の市長は、多数の宇部市職員を勿来のボランティアセンターに派遣する英断を下したそうである。
 宇部市の職員からは、福島県との方言や文化の違いなどをいくつか教えてもらった。宇部市の国際交流を担当しているという方からは、「宇部市はいわき市から遠く離れたところにある。ところが、外国人から見ると同じ狭い日本の中。今回で、外国人は山口県にも来たがらない」と困惑していた。一方、「あなたのように遠い外国から来る人がいるとは、びっくりした」と感謝された。自分のTシャツには「ロサンゼルスから駆けつけたリッキーです」とマーカーで書いていた。そこで、アメリカから来たということが分かったらしい。
 ボランティアは、全国の津々浦々から参加していた。大阪、滋賀、東京、茨城、富山、北海道などである。母と娘での参加者もいた。アラスカ州フェアバンクス出身で、富山県在住のモーアさんと話す機会を得た。「よく日本から逃げなかったね」と尋ねると、「自分は逃げない。富山県から運転して駆けつけた」と応え、とても頼もしく感じた。
 ボランティアのほとんどが福島県外から来ており、やはり、放射能が心配であった。滋賀からの参加者は、放射能探知機を携帯しており、危険レベルには達していないことを絶えず私たちに教えてくれた。
 
汚泥除去作業
 
 午後は、勿来の海岸沿いの住宅街に向かった。そこには、壊滅的打撃を受けた風景が広がっていた。災害から2カ月近く経ったが、まだ清掃作業には時間がかかりそうである。めちゃくちゃに破壊されたがれきと化した山、押しつぶされた家、根こそぎ流された家、重なった状態の廃車があった。ものすごい臭いが漂っている。腐ったゴミと化学薬品の混ざったような悪臭である。

道路の溝に埋まった汚泥やがれきを取り除く作業をするボランティア(写真=永野さん提供)


 業務は、道路の溝に埋まった汚泥やがれきを袋に入れ、道路のはじに置くことであった。シャベルで腐った泥の塊を叩き、砕き、それを布袋に入れるという肉体作業である。
 泥の中に、ガラス、木材、釘、針金と危険なものがたくさん混在していた。溝の泥を3メートル奇麗にするのに3時間もかかる。除去中に小さな子供用のご飯茶碗を見つけ、耐え切れず涙が出てくる。食卓に並べられる茶碗は、ファミリーや平和を象徴するものである。泥にまみれた茶碗を磨き、悔しくかつ残念で仕方がなかった。熱い思いがこみ上げてきて、ひたすら泥の除去作業にあたった。
 壊滅的打撃を受けたエリアのなかで、不思議なほど無傷で残った一軒を見つけた。そこから若い父親と子供2人が出てきた。「よく家がここまで無事でしたね」と話しかけると、頑丈な壁が守ってくれたとのことである。
 周囲に壊滅的な風景が広がる中、父親は普段着で水撒きをしている。そして近くで子供たちは無邪気に遊んでいる。対照的に、私たちボランティア集団は放射能と汚染を恐れてか、マスクとヘルメットをかぶり、宇宙人のように仰々しい格好をしている。これを見て、「地元住民は、避難民として逃げるより、たとえ危険を冒してでも、住み慣れた場所で生き抜こうと必死な覚悟と勇気を持って暮らしている」のだと大きな感銘を受けた。
 
ボランティア作業終了
 
 午後4時ごろ、作業を途中で終えてボランティアセンターに戻る。手洗いうがいをし、解散となった。宇部市のボランティアの方々からは、「リッキーさん、今度は宇部市にも来て下さい」と別れ際に握手を求められた。
 一日だけのボランティアであった。復興のために何か手助けができたという意味では有意義なものであった。多くのボランティアや職員の高い志に励まされた一方、地元住民の置かれる厳しい状況に触れ悲しくなる。彼らは、絶望のふちの中から何とか生きようとする勇気を保ち、放射能という目に見えない敵と戦っていかなければならない。被災地支援は、南加地域からも今後継続していくべきものと実感した。

 ボランティアに興味のある人は永野さんまで、メール—
 [email protected]
 勿来地区災害ボランティアセンターの詳細はホームページ―
 http://ndvc.blog59.fc2.com/
 
 
永野力
東京生まれ、トーレンス市在住。3歳で渡米。アルハンブラ高校、あさひ学園高等学校卒、慶應大学経済学部卒、経団連勤務後、ロサンゼルスの永野森田米国公認会計士事務所でアソシエート・パートナーを務める。JBA教育部会メンバー。妻と3児、犬と猫の7人家族

Share.

Leave A Reply