「命のビザ」生存者:杉原千畝の姪孫と対面

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杉原のビザで助かったプロハニック氏(左)と千畝の姪孫の杉原哲也氏。2人が手に持っているのが、千畝が発給したビザのコピー。後ろスクリーンには千畝が映し出されている

杉原のビザで助かったプロハニック氏(左)と千畝の姪孫の杉原哲也氏。2人が手に持っているのが、千畝が発給したビザのコピー。後ろスクリーンには千畝が映し出されている

 第二次世界大戦中、外交官という立場にありながら外務省の訓令に反し、ナチスドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民に日本国通過査証(ビザ)を発給し、およそ6千人の命を救ったことで知られる杉原千畝。彼が発給した「命のビザ」で生き延びたレオン・プロハニック氏(82)と千畝の姪孫・杉原哲也氏が当地ロサンゼルスで対面した。【吉田純子、写真も】

 3月29日、ロサンゼルスにある「ミュージアム・オブ・トレランス(寛容の博物館)」には両氏の話を聞こうと子どもから高齢者まで多くの人が集まった。
 千畝は1940年、ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちに独断で大量のビザを発給。当時の日本はドイツと同盟関係にあり、千畝の判断は国家に反する重大な背信行為にあたるにもかかわらず、人命救済を最優先とする行動をとった。
 千畝は哲也氏の祖父の兄。同氏の祖父は若くして亡くなったため、千畝が同氏の父の親代わりをしてくれたという。同氏にとって祖父同様に思っていた千畝は、どこにでもいる普通のおじさんだった。
 「千畝は静かで、過去のことを語らない人物」。後になって彼が第二次世界大戦中、リトアニアのカウナスの日本領事館で働いていたことを知った。ビザ発給のことはもちろん、千畝が外交官であったことすら成人するまで知らなかった。大学生の時に千畝が亡くなり、その時多くのユダヤ人が葬儀に参列しているのを見て、千畝が普通の人物ではなかったことを知る。
 日本帰国後、千畝は47歳の時に外務省を退職。当時住んでいた神奈川県藤沢市の鵠沼で同氏の父・直樹氏と文具雑貨店を営むが3年ほどで閉店。その後は得意のロシア語を生かして商社に入社し単身モスクワに渡り、出稼ぎをしていたという。
 ビザ発給から28年後の68年、杉原のビザで救われたユダヤ人が彼を探し出した。千畝は日本人以外には発音しづらい名前だったため、「センポ」という音読みを教えており、助けられたユダヤ人たちは「スギハラセンポ」で探していたため発見までに時間がかかった。
 杉原のビザ発給から71年後の2011年。日本を東日本大震災が襲った。発生後、外国政府として初めて医療支援チームを被災地に派遣したのはイスラエルだった。世界中のユダヤ人社会から千畝への恩返しの声が上がったという。
 同氏は年老いた千畝本人にビザを発給した理由を1度だけ尋ねたことがあった。するとこう返ってきたという。「人間として当然のことをしただけ―」
 「その様子は昔から見ていた千畝そのものでした。彼はそういう人なのです。彼はユダヤ人でなくても同じ決断をしていたと思います」
 現在同氏は「千畝リベレーション協会」の代表を務め、弱者に対する差別や偏見をなくすための活動をしている。
 一方、杉原のビザで助かったプロハニック氏は39年、6歳の時にポーランドから逃れてきた。一家は同国で2番目に大きなチョコレート工場を経営していたが、ナチスドイツのポーランド侵略とともに工場は奪われた。先に米国に移り住んでいた伯父が一家の身を案じ、逃げるための資金を送ってくれたという。
 同氏の父が杉原の発給したビザを受け取り、一家は約2週間かけてシベリア鉄道でロシアを横断。40年に日本に渡った。
 今でも2週間滞在した東京のことを覚えている。「あんなにきれいな街は見たことがありません。デパートの屋上には遊園地があり、まるで夢のような世界でした」
 東京からカナダへ渡り、米国の入国許可がおりるまで過ごし、その後念願のニューヨークへたどり着いた。
 終戦後は映画監督や作家としてのキャリアをスタートさせ、オーストラリアで数年過ごした後、妻と出会い結婚。その後ロサンゼルスに移り、今も映画監督として活動し、時間を見つけてはロサンゼルスの子どもたちに自身の体験を伝えている。
 「杉原氏のビザがなかったら、私は今こうしてこの場にはいられなかった。75年の歳月を経て、家族を救ってくれた杉原氏の姪孫と会えて感動しています」と語った。

ホロコースト生存者
自らの体験語る

「どんなに辛いことに直面しても決して希望を捨てないで」と語るホロコースト生存者のプライス氏

「どんなに辛いことに直面しても決して希望を捨てないで」と語るホロコースト生存者のプライス氏

 ガーデナにあるゴスペルベンチャー・インターナショナル教会で3月28日、杉原千畝の姪孫・杉原哲也氏をゲストに迎え千畝の思い出を語る講演会が催された。ナチスのホロコースト生存者モーリス・プライス氏(88)も出席し、来場者に自らの体験を語った。
 プライス氏は1927年にポーランドのボルブロムで生まれた。家畜業を営む中流階級の家庭で、何不自由無く育った。39〜42年にユダヤ人に対する暴動や反ユダヤ勢力が増し、家族は立ち退きを命じられた。
 42年、ついに家族は初めて離ればなれになってしまう。母は別の収容所に送られ、同氏は43年にアウシュビッツに送られた。現地に着いた時、ナチス兵にトラックに残れと言われたが、直感で「何かおかしい」と思った同氏は、気付かれないようにトラックから飛び降り、別の列に混ざった。後で分かったことだが、トラックに残っていた人たちはガス室に送られていったという。
 「アウシュビッツは本当にひどいところで1日20時間の強制労働をさせられました」。朝と夜、囚人は泥だらけの土の上に並ばされ、直立不動の姿勢で何時間も立たされた。疲れて立てなくなろうものなら容赦なく殺されたという。「たくさんの死体を見ました。人間ではないような扱いを受けていたのです」
 44年10月、同氏は家畜車に乗せられ、アウシュビッツからドイツにあるダッハウ強制収容所に送られた。食事はわずかなパンとスープで、セメント作りの労働を強いられた。
 住居は祖末な小屋で、不衛生な状態だったため腸チフスが蔓延。感染者は次々にガス室へと送られていった。「弱ったら殺される。頑張って働かなければ」。自らに言い聞かせ、辛い労働を耐え抜いた。
 約6カ月ほどダッハウで過ごした後、45年4月、囚人を別の収容所に移すためナチス軍による「死の行進」が始まった。死の行進中は食事も与えられない過酷な状況の中、歩き続け、力つきると銃殺されていったという。移動中、ダッハウが米軍により解放され、同氏は「生き延びた」と悟った。そしてダッハウを解放した米軍が日系人部隊「第442連隊戦闘団」だったのだ。
 救出後、同氏はミュンヘンの施設に入所し、45年にニューオーリンズ、その後テネシー州ナッシュビルに移り、同地のユダヤ人ソーシャルワーカーが同氏の家族が生存していることを探し当てた。
 時計の修理工として働き、カリフォルニア州で妻と出会い結婚。朝鮮戦争では米軍に従軍した。現在は寛容の博物館で働き、来場者にホロコーストの真実を伝えている。
 若者に自らの体験を伝えるホロコースト生存者のアイゼンバーグ氏


若者に自らの体験を伝えるホロコースト生存者のアイゼンバーグ氏

 「どんな辛いことに直面しても決して希望を失わず、困難に立ち向かって生きてください」。自らの体験から来場者にこのメッセージを贈っている。
 同じくホロコースト生存者で、当日会場でプライス氏の話を聞いていたポーランド生まれのジェイコブ・アイゼンバーグ氏(90)は武器の製造工場に送られたためアウシュビッツに送還されることから逃れられたという。「差別や偏見から生まれる悲劇を繰り返さないためにも、戦争での体験を若い世代に伝えることは使命だと思っています」と話した。

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