この春に鹿児島を訪れた。大学生の夏に仲間とひと月かけて九州一周旅行をして以来だから50数年ぶりになる。
 一日かけて一番の目的地、知覧の特攻平和会館まで行ってきた。大戦末期、ここから特攻作戦で多くの20歳前後の若者たちが飛び立っていった。特攻作戦に散った若く純真な彼らが思いを込めて遺した手紙や写真や遺品に会い、彼らの霊に追悼と鎮魂の祈りを捧げねばと長年抱いていた思いがやっと叶った。
 各種の展示を見て回る間、そうなると分っていたが、涙がずっと止まらず、重ねて持っていた鼻紙がぐしょぐしょになった。若かった彼ら一人一人の心情が胸に迫った。
 戦局悪化の中、若者たちは最後は日本を守るために命を捧げる決意をした。故郷の家族や国の将来を思いながら出撃して行ったことだろう。
 写真で見る彼らの顔は屈託ない笑顔も真面目な顔も皆一様に目が澄んでいる。日本人として心に沁みる。戦争のもたらす悲しさが胸に広がる。
 特攻の出撃は九州や沖縄、台湾などの各地から行われ、特攻戦死者は陸軍航空隊が約1400人、海軍航空隊が約2500人、合計約3900人とされる。何とも多くの有為の若き人材を特攻作戦で失ったことか。
 若者たちは自分たちは死んでも、いずれ戦争が終れば残った日本人が日本を必ず立派に復興してくれと祈って散って行った。遺書で分る。彼らこそ生きていれば日本再建にどれほど貢献できる人材であったろうか。
 知覧は旧陸軍航空隊の出撃地で、陸軍航空隊の特攻戦死者の約3分の1の四百数十人がここから出撃している。少年飛行兵上がりで十代後半の少年も多数いた。出撃戦死者の名簿を見ると年齢層は17歳から23歳までが大半だ。
 知覧は今は桜並木と緑の広い公園の中に航空機の展示と共に記念館や展示館が広がり、旧滑走路は今は有名な知覧茶の茶畑になっている。知覧の特攻平和会館は展示により当時の真情を伝えて、世界の恒久平和に寄与したいとする。見るわれわれは戦争のむごさ、空しさを学び、平和の大切さ、命の尊さを思うのである。
 鹿児島市に入り丘の上から望む錦江湾の桜島の景観は雄大だ。悠久の自然とはかない人の命の対比を感じさせる。眺めながら知覧の思いがずっと続いた【半田俊夫】

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