戦中に生まれ戦後に幼児期から思春期を経て成人した世代、僕がそうだがこの世代は、大戦中の悲惨な出来事についてたくさんの本や記録物や映画を見て、衝撃と悲しさ、恐ろしさを感じて育った。
 以来普段は辛い内容を半ば封印した感じで過ごすが、終戦の夏が近づくと大戦の歴史報道などの影響か、当時も今も封印が解かれさまざまな事件の悲劇がよみがえる。
 対馬丸事件と呼ばれる惨事は、昭和19年8月22日の夜に起った。敗戦の約1年前だが日本は制空権、制海権を失い既に敗色濃厚な時期だった。対馬丸は疎開船で、沖縄から本土へ疎開しようとする学童や一般市民たち1661人が、他の輸送船群と共に一種の海軍護送船団方式で鹿児島に向う航海中の夜、米軍潜水艦に撃沈され、乗っていたうちの9割の約1500人が犠牲者となった。米艦が発射した魚雷3発が命中し11分で沈没したといわれる。
 乗っていた6歳から15歳の小中学生の学童は約820人で、その95%の775人が亡くなる痛ましい事件だった。こうした罪のない民間人が米軍の攻撃で多数生命を奪われるという理不尽な悲劇は当時たくさん起きた。
 既に当時、沖縄近海では民間船が米潜艦により多数沈められていた。中に緑十字船で攻撃が禁止されていた阿波丸轟沈事件では約2000人全員死亡、同じく攻撃禁止対象だった陸軍病院船ぶえのすあいれす丸撃沈事件では病人や看護婦約180人死亡などの例があり、また民間船以外にも陸海軍の病院船で沈められた艦船名を挙げたらきりがない。だがどれも報道は抑制された。
 国際法違反の攻撃もあったが一方日本の民間船といっても当時軍に徴用され輸送船に使われていたから疎開の児童集団や市民群が輸送されていようと軍用物資も積載されており米軍は容赦せず攻撃対象にした。当時日本軍もあくまで軍の運用が第一優先で民間人の保護は二の次だった。
 戦後70年、今ここで米軍の攻撃ぶりや行動を批判するスペースは無く目的でもない。残酷非道な戦争の中で相互にルール破りはある。だが戦後それを裁く力は勝者が独占した 。そこを超えて個々の悲惨な事件をこれからも思い起こして平和を考えてゆくのが亡くなった人々にせめてもの鎮魂と思う。【半田俊夫】

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