「奇跡」を手に脱出:杉原ビザの生存者 レオ・メラメド氏が回想

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杉原ビザの生存者レオ・メラメド氏(右)とベティ夫人

杉原ビザの生存者レオ・メラメド氏(右)とベティ夫人


 「杉原がビザを発給してくれたあの日のことを、私たちは決して忘れません―」。1940年、ナチス・ドイツからの迫害を逃れてきたユダヤ人難民に、政府の意向に反して日本国通過査証(ビザ)を発給し、数千人の命を救った外交官、杉原千畝(1900〜86)。彼が発給した「命のビザ」で救われたレオ・メラメド氏が11日、ロサンゼルスを訪れ、当時の思い出を話した。【吉田純子、写真も】

 メラメド氏は1932年、ポーランド東部ビャウィストクで生まれた。ビャウィストクはポーランドでもっとも大きなユダヤ人コミュニティーがあった場所だったという。
 7歳の時、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害から逃れ、中立国であるリトアニアに家族とともに移った。そして最終的に在リトアニア日本国領事館にたどり着いたという。
 領事館にはビザを求め、たくさんのユダヤ人難民が押し寄せていた。「そんな私たちを政府の命令に背いてまで助けてくれたひとりの外交官がいたのです。それが杉原でした」
 当時の日本はドイツと同盟関係にあった。杉原は外務省にビザを発給しても良いか何度も電報を出すが認められず、悩んだ末、訓令に反してでもビザを発給するという決断を下した。
 杉原は寝る間も惜しんでビザを発給し、外務省から領事館退去命令が出された後も書き続けたという。
 「そして私たちはついに『奇跡』を手にしたのです―。彼が私たちの命を救ったのです」。ビザを受け取った後、一家はシベリア鉄道でソ連を横断。3週間後にウラジオストクに到着し、船で日本海をわたって福井県敦賀港にたどり着いた。

杉原ビザのコピー

杉原ビザのコピー

 「杉原ビザはおよそ2千人分発行されたといいます。敦賀港にはその後もたくさんのボートが到着していました」
 与えられたビザはトランジットビザだったため、日本には長く滞在できない。メラメド氏一家は米国に行くための許可書を手に入れ、41年4月、無事米国に到着した。「杉原ビザのおかげで私は今こうしてアメリカにいられるのです」
 渡米後、メラメド氏はシカゴに移り住み、弁護士を経て、67年に世界最大級の先物取引所「シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)グループ」の理事に就任。2年後、36歳の若さで理事長となる。現在は同グループの名誉会長を務め、シカゴの先物市場に、いち早く金融商品を取り入れたことで「金融先物の父」と呼ばれている。
 杉原ビザ取得からおよそ50年の歳月が経った時、メラメド氏は杉原の長男・弘樹氏と会うことができた。「領事館での出来事は生涯忘れないでしょう」。当時5歳だった弘樹氏はメラメド氏に当時の思い出をこう話したという。「弘樹氏によると日本政府からビザ発給を拒否された時、杉原は家族にこう告げたといいます。『彼らは罪のない人々。命を落とす理由などないのです。私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背くことになる』と」
 杉原本人と実際に会うことはなかったが、幼少の頃の体験はメラメド氏のその後の人生に大きな影響を及ぼした。「リスクを恐れずチャンスをつかむこと。その心構えがビジネスにも生かされていきました。あの時の体験があったからこそ新しいアイデアや冒険を恐れず、何事にも立ち向かうことができた。こうした姿勢が私を成功へと導いてくれたのです」とメラメド氏は語る。
 「杉原なくして今の私はありません。彼がしてくれたことへの感謝の念を私たちは永遠に忘れないでしょう」
 外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。1枚のビザで一家族が救われたことから、杉原が救ったユダヤ人の数は6千人以上に上るとされている。
ユダヤ教会「Temple of the Arts」で行われた式典で映し出された杉原千畝のスライド映像

ユダヤ教会「Temple of the Arts」で行われた式典で映し出された杉原千畝のスライド映像

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