悔いる日々
遅い夏の到来で、うだる暑さが続く。汗が流れ落ちるから鉢巻きしながらの日々。奮闘ならいいが、悔いの日々を過ごしている。 本を読んでは、若いころの読解力のなさに落胆し、あの頃もっと理解していたら、あの人に詳しく話が聞けたのに、今はすでに鬼籍の人。こんなことにもっと興味を持っていたら、聞ける機会があったのにと、じだんだを踏むこと多々あり。
遅い夏の到来で、うだる暑さが続く。汗が流れ落ちるから鉢巻きしながらの日々。奮闘ならいいが、悔いの日々を過ごしている。 本を読んでは、若いころの読解力のなさに落胆し、あの頃もっと理解していたら、あの人に詳しく話が聞けたのに、今はすでに鬼籍の人。こんなことにもっと興味を持っていたら、聞ける機会があったのにと、じだんだを踏むこと多々あり。
読書の秋、と書いて、はたと手が止まった。そして、たまらなく、寂しくなった。本屋が街から消えてしまったのだから。以前は車で行ける範囲に日本書店が2軒あり、目当ての本がなければ、そこで、注文できた。本が届くのを待つ時間も楽しかった。 休日の暇つぶしはたいてい本屋で、それがまた、こよなく充実したリフレッシュの時間でもあった。
人種のるつぼのアメリカで、多種多様の人々と、会社では一個人として付き合い、ビジネスの現場では、全く対等の立場で仕事ができることを、感慨深く思うことがある。 指折り数えてみれば、最初に仕事を得てから、現在に至るまで、40年になる。この国で働き始めた若き日は、単純労働しか出来なかった。
前回AIやロボットの話を書いたが、AIって何だろうと考え出すと頭がぐるぐるして思考が止まらない。 人間には「自我」「知能」「知識」「知恵」などと呼ばれるものがあるが、プログラムや計算で表せられるのだろうか。哲学的には「我思う、故に我在り」。凡人には分からないが、人工知能ではこの「自我」はどう計算されているのか何となく気になる。
自由な時間ができると、行きたくなる所がある。日本語書店である。街路樹が紅葉し始め、赤や黄色の落ち葉を足元に見ると「読書の秋」の言葉に誘われる。 書店に入り、一番目立つ玄関口に平積みになっているのが、今、注目を集めている話題本。旬のもの。